マイ・ファニー・レディ



「かつて娼婦は神聖な職業だった/心と体が一致していたいい時代だ」と言われて皮肉じゃなく「あなたってロマンチストね」と返すような女が語り手じゃ、今の私が見るにはぎりぎりかなと思った(昔から苦手だったけど「そういう映画」しか無かったから、今は選択肢があるものね)確かに「妻」であるキャスリーン・ハーンは「私は誰のものでもない」と言い、「元娼婦の女優」であるイモージェン・プーツは一人で「自分の道」を「上る」けれども、彼女が例えばあの「師匠」の年齢になった時、「それ」は続いているだろうか?「誰でもいいから隣にいてほしい」という願いは満たされるだろうか?これから見るなら私はやっぱり、「脚本家」や「演出家」が女性である映画がいいな、だってそれは「現実」と繋がっているから。


とはいえ多層なものって何でも美味しい、この映画もそう。「ビデオカメラのようには確かじゃない」記憶を元にとある人物が喋る(勿論、加えて絶対に「知り得ない」場面の数々も!)という設定により幾つもの「層」が重なる中、昨日まで「娼婦」だったイモージェンがオーディションで「娼婦」を演じる場面で不意に、真実がどうとかそんなんじゃない、そこだけがピンですっと貫かれたような感動を覚えた。この映画(における彼女)は全てを「魔法のよう」に描くけれど、物語における一番の奇跡は彼女にこの役が回って来たことなんじゃないかと考えた。


映画が始まるとまず、イモージェンが「私はハッピーエンドしか信じない、昔のハリウッド映画が好き、自分にとって身近なことばかりのケーブルテレビは嫌い」。ここでいきなり引導を渡される、すなわち彼女はそういう人なんだ、これはそういう映画なんだと覚悟を決めて飛び込ませられる。「誰かが語っている内容という設定の映画」の魅力は「語り手」のそれに負うところが大きいけれど、本作の彼女は、「話」をする時、光の具合で大きさが変わるんじゃないかというような猫の目をしている。加えてアイメイクの目尻のハネと口角の上がり具合が一致する気持ちよさ。インタビュアーの方にも同様に惹かれるけどね(何たってイリーナ・ダグラスだから!/「それは読んでる」のがジェニファー・アニストン著「Bitch is beautiful」というのが可笑しい)


ニューヨークが舞台の映画といえばやはりエレベーターとタクシー。冒頭のオーウェン・ウィルソンリス・エヴァンス、中盤のイモージェンと探偵のジョージ・モーフォゲン、終盤のイモージェンとルーシー・パンチ!のエレベーターの「乗り合わせ」が楽しい。でも私が好きなのはオーウェンとキャスリーンの夫婦がタクシーに乗って降りるまで。オーウェンとイモージェンが真っ暗な中で「あなたは最高」とばかり言い合う馬車とは真逆で、中からも外からも丸見えの昼日中に災難に遭う。「乗り物」として使ってないのに、あんなにも「乗り物」の何たるかを感じる場面ってない。だってあの距離で彼らは違うところに「移動」するから。それなりに「気が合う」から一緒になったのだと分かるから。