しわ



スペインの漫画を同国で長編アニメーション化した作品。


オープニングはクレジットだけの真っ暗な画面に様々な音、スクリーンが「明るく」なると、銀行らしき一室でこちらを向いて座っている老人の「目」と目が合う。後に彼、エミリオが小学生に戻る場面でも、他の子ども達の「目」がぎょろりと動くのが印象的で、重層の紙細工のようだった。
冒頭、エミリオの息子の嫁のお尻が大きいのと、スープにヌードルが入っているのと、言葉とで、スペインの話かなと思う。しばらく後に会話でそうと分かる。でもどの国であってもおかしくない内容。
舞台は養護老人施設。老人達の「妄想」よりも、建物内の静けさや、エミリオが言葉を忘れる場面の方がずっと恐ろしく面白い。「妄想」とは平和なものであり、自らが揺らぐのはその「手前」の段階なんだからそりゃあそうか。


お茶の時間のやりとりの場面から、話がぐっと面白くなる。認知症の進んだモデストと彼の世話をするために入居しているドロレスについて、エミリオと同室のミゲルが「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てると、仲間のアントニアは「愛ってそういうもの」「あなたは老いを悲観しすぎ」(ここで彼のベッドの上の雑誌や「バイアグラ」などの「冗談」を思い出す)などと返す。更なる会話の後、彼女は「私は家族に愛されてるわ、ここに来たのは自分の意思」とその場を後にする。しかし歩行器を使っているためさっさとは立ち去れない。年を取るってそういうこと、自分で動けるだけ「まし」なのだ。
物語の最後、ミゲルはかつて「馬鹿馬鹿しい」と言っていたことを進んでするようになる。色々なことが「回収」される、とても「キレイ」な作りだ。また長年のパートナーが居なくても、年を取ったその時からでも、人間同士の繋がりは生まれるという「希望」も描かれている。


中盤、作中唯一、というか最も「コミカル」な場面にセクハラ描写があったので一気に心が重たくなった。こういう場面にそういう描写があるってことは、そういうことをされてもゴタゴタ言うもんじゃない、というメッセージを送ってるのと同じだ。
ドロレスが語るモデストとの馴れ初めにも白けてしまった。こんな話ばかりが作られ流されるから、女は愛される側から抜け出せず、男は何らかの愛を行使すればいいと思っちゃうんだよ、と文句を言いたくなる。アニメーションだから余計、実際にはいかに多くの手が掛かっていても、何かこう、まとまった巨大な意思を押し付けられているように感じてしまう。


エミリオが「二階」に連れて行かれた後、ミゲルが彼の財布の中に一枚の写真を見つける場面で、カメラ?はエミリオの顔をクロースアップするけど、私は「ビデオ屋」のカードに泣いてしまった。施設内のテレビにはいつも同じ番組。好きなものなんて、何一つ選べなかった。そんなことってあるだろうか。
次の場面では、季節がめぐったらしく、施設の敷地内の木々に花が咲いている。人間は老いたら老いたまま、もう咲くことはない。でもアントニアの腕の怪我は治るし、ミゲルは新しいことを始めることができる。人間ってそうなのだ、そう「できる」というより、そう「してしまう」のだと思った。
因みにミゲルとアントニアは食事やお茶の時などいつも一緒だが、別に「気が合う」わけでも「男女として惹かれ合っている」わけでもない。単にその場の仲間として一緒にいる。そういうことって大切なのかもしれない。


私はアニメーションが得意じゃないので、これが実写ならもっと面白いのになあ、と思いながら見た。エミリオとミゲルが下着一枚でプールに浮かぶ場面に、もし実写なら「きつい」と感じてしまうかもしれない、でもってそう「感じてしまう」ことが、何らかの困難の原因になってるんだろうなあ、と思った。