裸足になって


声を失い無言で横たわる娘の口元に母が耳を寄せ「何か話して」と語りかける画があまりに鮮烈で、ここがどん底なのかと思う。メッセージは口から耳へ伝えられるものだというところで膠着しているならそれを振り切る必要があり、娘はその後、これまでとは異なる声を手に入れ母が願ってそう名付けた「自由(フーリア)」を獲得していく。ダンサーの手話とは独特なものだろうか?

(ちなみにこの辺りまでのカットの重ね方というか語り方には実に映画を感じた。単純なことだけど、比べれば時間の潤沢なドラマはこういうことしないから)

フーリア(リナ・クードリ)の再生に必要だったのは、リハビリ施設での昼食時に皆が「明日の遠足に来て欲しい」と伝える根底にある気持ちだと私には思われた。あなたを知りたい、一緒にいたいというシンプルな思い。翌日水辺で白いドレスでおそらく裸足で踊るフーリアに、何重もの絆創膏の上にシューズを履いて確認していた以前の姿を思い出し、バレエの先生がいつもタバコを咥えていたのは窮屈だったからではと考えた(ここではタバコは女性のストレスの象徴でもあり、フーリアを迎えた弁護士や部屋に押し入られた後の母などが吸っている)。

序盤に病院から帰宅したフーリアが喋れず歩けない体で這って行き窓を何とか開けて雨に顔を晒す場面があるが、この映画では水が大きな意味を持つ。女三人で出かけた際の浜辺のダンス、水の中に認める自分の足からソニア(アミラ・イルダ・ドゥアウダ)への「海が怖くないの?」までその持つ意味、表すものは様々だ。私にはこの物語は多義性との付き合い方を描いているように思われ、それはフーリアが屋上に運んできた皆の青いドレスに雨除けあるいは埃除けのカバーをかける姿に表れているような気がした。

テロリストのアリと癒着している警察によって閉鎖されたダンススタジオの前で、彼が分かるはずのない手話で罵倒するフーリア。とにかく「言う」、言ってやることに意義がある。最後の女達のダンスにはふと『グレート・インディアン・キッチン』(2021年インド)の終わりのやはり女だけのそれを思い出した。あれはこれからを生きる女の子へのレッスン、こちらはスクリーンのこちら側の(アルジェリアを始めとする世界の)女達へのメッセージだったけど、女だけの踊りには今、全て意味がある。