存在のない子供たち



スウェーデンへ行けば安心して暮らせる
 私の部屋に入れるのは私が許可した人だけ
 死ぬ時は自然な理由で死ぬ」

冒頭、ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア/彼と監督ナディーン・ラバキーのみ本名と役名が同じ)含む少年達が戦争ごっこ、というよりも銃を模したおもちゃで他者を蹂躙したりタバコを吸ったり、要するに大人のすることをして遊ぶのに始まる、彼が家を飛び出すまでのパートの情報の詰まりよう、きめ細かさがすごい。母いわく「豚小屋」のような住まいで当の親に打たれたり蹴られたり、まだ幼い弟がタバコや薬を手にしていたり、外での労働時に性的虐待を受けそうになったり。ゼインは仕事中にすれ違うスクールバスを横目に学校に行きたく思っているが、乗っている教師は彼に目もくれない。

子どものための場所である遊園地で目覚めたゼインが遊具の女の乳を露わにするのは母を求めているのか女を求めているのか、私には前者のように思われた。ラヒルの留守時にその乳飲み子を預かった彼は何度も乳をまさぐられるが、比喩で言う「お母さんのおっぱい」も飲んでいないゼイン自身こそが自分より更に弱い者を守らなければならなくなる。ラヒルが我が子を愛する様子を目の当たりにして彼が涙しながら思い出すのは、母との存在しなかった思い出ではなく妹サハルとの思い出である。

尤も私には、本作で一番強く撮られている言葉は、監督自身が演じる弁護士がゼインの母に言われる「あなた達は考えもしない、これまでもこの先も、私の暮らしならあなたはとうに首を吊っている」に思われた。身分証がないからと死にそうであっても病院で門前払いされる人々につき、「裁くことなんて誰にもできない」のだと。ゼインも言うじゃないか、「死ぬべきなのは誰だか教えてやる」と。命が地獄を味わうためのものでしかない人々を、自分はそうでないのに踏み付ける奴らこそ最悪なのだ。

「フロリダ・プロジェクト」や「万引き家族」では一家の近くを通る新幹線やハイウェイをゆく車が人々の無関心を感じさせたものだけど、比べ得るものではないが、こちらではゼインや赤子の脇、本当にすれすれのところを車が飛ばしていく。猶予などないとでも言うように。子どもが子どもを今にも捨てようとしている傍で談笑している大人だっている。そして他の映画において車窓から感じる風が自由を表すなら、作中ゼインが風に吹かれるのは冒頭屋上で妹と肩を並べている時だけ。歌と見上げれば空をゆく鳥達が、地獄に吹く風なのである。