サイレント・ツインズ


ポーランド映画祭にて観賞、2022年ポーランド、イギリス、アメリカ制作、アグニェシュカ・スモチンスカ監督作品。出演はレティーシャ・ライト…に始まるオープニングは私には、実在の人物を元にした創作物において作り手と受け手とが共犯関係を紡ぐことの(どのみち明らかなそれをはっきり言っておくのはむしろ誠実なのだろうか)、あるいはここに多くの命、人生が関わっていることの告知に思われた。

3人でしないんだ、と思ったところで少しだけこの映画が見えた気がした。あれはあの男の好みでもましてや二人によるあの男の取り合いでもなく、「創作のために刺激を受けなきゃ」と(はすてきな言い訳でもあろうが)外へ出て男と接触するも(彼もまた親と住んでおり「ろくでなし」呼ばわりされているのが面白い)、それ、すなわち世界と関わろうとすると二人同時にというわけにはいかず引き裂かれ、片方が花開いている時に片方は色褪せてしまうということなのだ。冒頭ラジオごっこできらめいていた世界が母親が部屋に入ってくるや色褪せていたあれに、二人なら耐えられても一人では耐えられない。

始めの学校で両親が言われる「英語を話す気がないなら…」から、二人の少女が世界に馴染む気のない、能力のない者として排斥されていることが分かる。そんな彼女らがダイアナ妃に心を寄せているのにじんとさせられる。次の学校での、気を利かせたつもりの教師(といって何ができよう、もしあの学校に私がいたらと考えてしまった、そうするとそもそも学校とはという疑問にぶち当たる)によりテープレコーダーと閉じ込められた場面の「しーっ」から、この沈黙は二人の間に取り決められ確認された意志であり運動のように思われたが、それは続けるうち制御できなくなっていく。演者がレティーシャ・ライトとタマラ・ローレンスに変わった一幕で二人はクリスマスのディナーの席での第一声を練習しているが、身内に部屋に入ってこられると萎んでしまう。

学校から排斥された二人が通信講座で学籍番号なんてものを持つことになるのに、色んな形の学校(のようなもの)が必要なんだと思う。ラジオのお喋りや文章、他人、いや世界の側の名を騙ってだけども電話での放火予告まで、二人は世界に直接的な声じゃない形で常に話しかけている。それに対する言葉を持って訪ねてくる映画の原作『The Silent Twins』の著者マージョリー・ウォレス(ジョディ・メイ)へのジューンとジェニファーそれぞれの応答いや働きかけが、そのぎりぎりさゆえに心に染みた。