人が意思でもって自分の体を変える過程を見せて人の心を動かすという『百円の恋』(2014)の核心を過剰なまでにカバーしつつ、物語のテーマは全く違う。映画の終わり、「勝ちたかった」と男にしがみついて泣く一子(安藤サクラ)と異なりこちらのローイン(ジア・リン)は男に背を向け「私は勝った」とSNSにあげる、すなわち世界に伝えるんだから。日本版はその人の前で泣ける相手がいるのはいいことだよね(これは分かる)、女ならそれが男だとなおいいよね(それがなんであんな男?そういう関係、「風情」とかじゃないんで…)という話に私には思われたけど、中国版は非情であった。非情な世界で自分の勝ちを掴みに行く話。それがよかった。
ジア・リンの100キロから50キロへの痩身は体に負担があったのではとやはり思うけれど(本国で大々的に宣伝されたあれこれは分からないけれど、映画においても本編の後にどれだけ大ごとだったか畳み掛けてくる)、女なら「痩せる」とは男社会への迎合を意味するところが大きいのが、ここではローインの、例えば最後の試合で追い詰められへたりこむ姿や試合後にベンチに座り込む姿などが、彼女が求めて得たものが妹の言う「今のうちにいい男を捕まえれば勝ち」と真逆の方向への勝利であることを示している。「戦った相手と抱き合うのっていい」と言う気持ちも痛いほど分かる。
しかし本作は仕掛けに凝りすぎの感もあり、最後の試合でリングに沈み込んでの回想シーンでローインが妹に、親友に、従妹に薄情な目に遭わされたことが私達に初めて知らされる。父親との会話における「りんごが大小二つ、友達が欲しいと言えば私は二つともあげる」生き方をしてきても全く報われることがなかった…から死ぬ気でボクシングの試合に挑むと決めたのだと種明かしされる。終盤も終盤になってそう分かるまで彼女の気持ちが読めず少々当惑しつつ見ていた。ちなみにこの回想の中にハオ・クンとの性行為の場面もあることから、やけ酒で酔った男を受け入れるのも彼女にとっては「りんごを二つあげる」に相当したのだ、だから彼の誘いに乗らず一人去る、一人進むのに映画が終わるのだと私は受け取った。