西湖畔に生きる


ドラマ『SHERLOCK シャーロック』(2010)で面白かったのが、アイリーン・アドラーに全裸で臨まれるとさしものシャーロックも手がかりが得られず何も読み取れないというくだり。裸とは文脈から解放されているということなのだと、この映画の終盤の、全裸で山の中の水に在るタイホア(ジアン・チンチン)の姿にふと思い出した。しかしたとえ「茶畑(自然)」「高層ビル(人間=欲望)」の二項対立のうち地理的に前者の側で生きようとそうはいかないわけなので、あの場面は正しく「幻」だったのかなと考えた。

マルチ商法にはまった母タイホアに対しムーリエン(ウー・レイ)は「元に戻ってくれ」と懇願することしかできない。「元」とは冒頭の、茶摘みの合間に日除け帽に立ったままでタッパーからご飯を食べている姿なのだろうが、あの彼女は既に「捨てられた」悲しさや悔しさ、お金があればとの願望などが溜まった、「裸」からは全くもって遠い、「高層ビル」に吸い寄せられ得る状態なのであり、体感では上映時間の半分程をマルチ商法の洗脳シーンが占めているのは、それを利用する行為こそが悪だということなんだろう。一旦手を染めるや息子の手からのおかゆ、すなわち優しさそのものを最早飲み込めなくなり、それどころかむせて息子の顔面に撒き散らしてしまう。

大学を出たムーリエンが何とかありついた仕事は、高齢者に「寄り添って」金を巻き上げる企業(退職できる彼は恵まれていると言ってもいいだろう)。タイホアが手を染めた違法ビジネスでなくとも人を食い物にするシステムなんて幾らもある。隠し撮りした映像を届けたムーリエンがこれでは証拠にならないし警察は人間性には関与できないと言われるのには、最近の日本での例なら例えばホストクラブが女性客に借金を背負わせる問題などが脳裏に浮かび、公権力が介入すべきことが色々あるということを思った。