石がある


映画は誰にでも開かれているけれど、若い女性が色々な男性に出会うという物語には何かしらの意図があると受け取らざるを得ない(意図がないならばそこに思想が表れていることになる)。当初は、主人公(小川あん)が停車中のトラックの運転席の高齢男性に声を掛ける場面からずっと、現実での経験からし若い女性はそんなことしないだろう(あるいは、若い頃には気付けなかったけれど…そのことを責められるいわれはない…そんなことをしてはいけないだろう)と困惑しつつ見るはめになる多くの女性に対し、いや、しても大丈夫だよ、あなたは、あるいはかつてのあなたは「人」として扱われているよと言っている映画なのかと思う。しかし見終わると随分な荒療治、いやこの形での治療は無理だなと思ってしまった。

老人のトラックで送ってもらい男児達と川辺でサッカーに興じ川向こうの男性(加納土)と出会うあたりで、これは、若い女性が一日、あるいは一晩で色んな男性に会って不愉快な目に遭う映画、こうして比べるには古すぎるし私もずっと見てないけれど『若草の萌えるころ』(1968)みたいなね、に対するアンチテーゼみたいだと思う。後の彼の日記に出てくる「人と出会う」話にすぎないんだと。それが終盤の彼一人のパートや彼女と犬のパートによってそうじゃないなと思われてくる…のと同時に、結局のところこれらの方が面白く、若い女性と男達の場面には終始ストレスを感じてしまっていたと思い起こす。若い女性を主人公に据えて、現実的な問題を排除した「普遍的」な物語を紡ぐのには無理があると思う。

二人の出会いは、彼の問いかけへの彼女の返答が向こう岸に届かず、彼が川をざぶざぶ渡って来るというもの(以降何度も川の中に入る場面があるので、役者さん、ロケ中に風邪引かなかったかと気になってしょうがなかった笑)。彼が意図的に「普通」からずれた存在とされていることには違和感を覚えた。第一に、広義での下心や後先を考えずにただ遊ぶということは普通っぽい人がした方がより面白いのではないか?第二に、もしこの映画に、先に書いたように若い女性も「人」として扱われているんだというメッセージがあるとしたら、それは普通っぽい人、普通の代表みたいな人(マジョリティと言ってもいいかもね)によってなされることでしか意味をなさないのではないか?他に見ない映画ではあったけれど色々疑問が残った。