海辺の彼女たち


ベトナムからの技能実習生三人が真っ暗な中を逃げ出す冒頭より地下鉄、フェリー、電車、バスと乗り物が数多出てくるが、その場その場で必要に迫られて乗るだけのそれらはどこにも繋がっておらず、日本語のみのアナウンスが恐ろしく響く。海辺に辿り着いた彼女たちの背後には道があり車が走り民家が並ぶものの、体調の悪いフオン(ホアン・フオン)と彼女を気遣い抱え歩くアンとニューの三人に誰も気付かない。その、「気付かない」のが私たちだと告発する映画である。

ベトナム人男性のブローカーの言う「小さな町だから」「普通に働いていれば大丈夫」「元の生活に戻れるよ」とは、それぞれに渡される一枚のキャッシュカードが象徴しているように、駒として労働だけしている分には大丈夫、社会と繋がる必要がない分には大丈夫という意味である。この映画は地べたの視点で撮られており何が彼女たちを支配しているのかを直接は見せないが、例えば彼がフオンを車に乗せてある物を受け取りに行く場面など、巨大な搾取のシステムが出来上がっていることが見て取れる。

「ふたつの日本」(2019/そもそもこの本のタイトル、レイヤーの違いがこの映画全編を通じて描かれていると言ってもいい)でもちらと触れられていたし私もそう思っているけれど、日本で暮らす外国人の多くが「病院に行くこと」を恐怖に感じている。三人が出向くその内には優しい気持ちと強い意思がある(現場では、見ていて不思議に感じるほどコミュニケーションが取れていたけれど)。しかし弱者ほど分断の危機に晒されるのが世の常で、社会と繋がりを絶たれた状態では共同体が分裂する。アンとニューの作中最後のセリフ!(字幕からして恐らく原語も乱暴なニュアンスなんだろう)。

上映後の舞台挨拶で監督自身も「ああいった『女性たち』」と言っていたけれど、この映画の「彼女たち」はベトナムの男から日本の男まで実に男達に縛られ締め上げられている。ブローカーの男性の連絡用の、こちら側の耳に付けたままのイヤホンや、とある男性が車のエンジンをかけるや流れる音楽が、彼女らの話を聞く耳など持っていないことを表している。本作には多くの女性も関わっているに違いないけれど、挨拶に登壇したのがたまたま男性ばかりだったこともあり、気を遣ってそのような…女性が搾取されることに焦点を当てた作りにしたように私には感じられた。