最愛の子



あまりに多くの人が、物事が描かれているものだから、まるで今の中国を「横断」、あるいは変な言い方だけど「解剖」しているかのような映画だと思った。


見ている最中、子どもの頃に読んだ少女漫画で、問題が発露した時には「諸悪の根源」が勝手にもこの世を去っており「存在しない」話がよくあったものだ(山岸凉子の「天人唐草」とかね)、それに理不尽さを覚えていたものだと思い出していたら、この映画はラストにその「穴」の深さを見せつける。作中様々な手掛かりはあれど、「不妊症だって誰に言われたの?」に泣き崩れるヴィッキー・チャオに…そこには色々な思いが渦巻いているんだろうけど…私としては、彼女演じるリーの夫はどんな人間だったのだろうとつくづく思った。彼女を捕えた警察がまず学歴を聞くのは「通例」なんだろうか?「中学中退」と答えるその姿に(「椅子に座っているのではない」と判明するカットはあざといけど確かに面白い)、ジュアン(ハオ・レイ)が息子のポンポンに方言ではなく標準語を使うよう言い聞かせ、教育に投資せんとし、自らも「都会的」な暮らしを目指していたのは、「それ」から逃れるためなのではないかと考えた。


この映画を「解剖」になぞらえるなら、そのメスが多用する技は「同じ形に切って見せること」である。それによって浮かび上がる、元妻のジュアンと夫のティエン(ホアン・ボー)がそれぞれポンポンに言う「方言ではなく標準語を使いなさい」の理由の差異、ティエンとリーの「桃アレルギー」についてのセリフの底に流れる、同じ「子を思う気持ち」。最も「面白い」のは、ポンポンを「取り返した」ジュアンとティエンを村人達が農具を手に追い掛けてくる場面と、リーが「行方不明の子を探す会」のメンバーに囲まれ暴力を振るわれる場面の対比。これは後に地方裁判所で弁護士のカオ(トン・ダーウェイ)が言う「(彼女に養う資格が無いなんて)農民だからですか、それじゃあこの国の10万人の農民は…」に繋がっているように私には思われた。「『関係ない』ことは言わないように」と遮る裁判長は、農民達の方に「得体が知れ」ない恐怖を覚えるんじゃないだろうか。


我が子が居ないことに気付いた父親が駅に出向き、集まった隣人達に「まず人の多いところから探してくれ」と頼む冒頭で、「中国では年間20万人の子どもが行方不明になる」という事を知らなくても、「人さらい」が日常なのだと分かる。捜索依頼の映像内での「特に物乞いをしている子どもの顔を見てください」という言葉に、さらわれた子が何をさせられるかが分かる。その他、国内移動でも農村の者が都市に滞在するには書類が必要であるなど、色々な要素がうまく組み込まれている。カオの「この町には金があふれてる」からジュアンの「女ならいいの?」まで、かなり「意識的」なセリフの数々も、ぎりぎり浮かず、映画を支える骨組みとなっている。因みに冒頭に出てくる隣人やカオ宅の家政婦など「故郷に帰る」必要に迫られている人が多々出てくるのも、「一人っ子政策」のせいなのだろうか?