ジェーン・ドウの解剖/アイム・ノット・シリアルキラー


「松竹エクストリームセレクション」の二作品を観賞。



▼「ジェーン・ドウの解剖」の冒頭で再確認したのは、私は映画における死体に一切興味が持てないということである(死体を使ったギャグなら好きだけども)。理由は説明できないけど、もう死んでるじゃんと白けてしまう。本作の肝は「ジェーン・ドウ」がずっと検視台に横たわっているという点なんだけど、要するに「死体」なので(「死体」のはずなのに!ということは「死体」として見せているということだから)飽きてしまった。


冒頭、分かれ目というものについて考えた。トミー(ブライアン・コックス)とオースティン(エミール・ハーシュ)親子の家は代々続く(ということが堂々と大きく示されている)遺体安置所&火葬場であり、地上と地下という区切りはあれど、死人と生き人とが「普通」に同居している。「EXIT」の赤いサインが、特にガールフレンドが「部屋」に入る時にしっかりと光っているのみだ(逆に「アイム・ノット・シリアルキラー」では、談笑する大人達から隠れながら死体部屋への傾斜を下りてゆく少年の後ろ姿が印象的だったものだ)


解剖の後にオースティンが「彼は孤独だから死んだんだ」と言うと、トミーは「いや、頭を打ったからだ」と返す。家を出て行きたいとも思っている「医療従事者」の息子はともかく、ベテラン検視官の父にとって、少なくとも「地下」に居る時には、人間のアイデンティティーとは「死因」である。そんなフラットな世界に、あんな今でも通じそうな問題が持ち込まれ消費されることに少々もやもやしてしまった。ただ、検視官にとって人間のアイデンティティーが「死因」なら、警察官にとってのそれももう少し広義の「死因」のはずで、映画の最初と最後をあのような場面で挟むことで、世界が「あの家の地下」よりちょっと広がっただけ、のように思われたのは面白かった。


電気が使えなくても(電波が入らなくても)事典や聖書があれば大丈夫!という要素には「ロスト・エモーション」を思い出した。「はじまりの歌」にも近いものがあったかな。本は大事だ。



▼「アイム・ノット・シリアルキラー」の主人公ジョン(マックス・レコーズ)は、給水塔のある田舎町を、車輪が小さい系の自転車を漕いで長い道のりを帰る(結構な遠出だったのだ)。晩には窓の中の同級生の姿に目を伏せる姿にふと、映画の少年を見るとどうしたってあの映画の彼に似ている、あの映画の彼が頭に浮かぶ、なんて考えてしまうけど、この彼は初めての彼だと思う。


劇場に出向いた理由の一つは予告編で聞いた音楽が気に入ったからなのに、まるで何も鳴っていないようだった。たまにこういう映画がある。全然悪い体験じゃない。主人公の「中」が見えず、音楽が心に沿っているか否かが分からないから、私には静かなのだ。


冒頭、葬儀屋としての処置を手伝った後に自室で脚をあげての「お前は誰だ?ジョンだ」にまず惑わされる。私ならどういう時にああいう格好をしてああいうことを考えるか、想像がつかない。母親(ローラ・フレイザー)に対する「自分にルールを課してるんだ、嬉しいだろう」は皮肉とは思われず、彼は自分で自分を意識して動かすことに人間として重きを置いているのだと思った。


セラピストがジョンと川辺や屋上など見晴らしのいい場所で会うのが心に残った。これは彼が少年を怖がっていないことの証(それを見せたいという気持ち)にも思われた(私はこの手の要素につき、いつも「不連続殺人事件」の大トリック、逃げる人間が誰もいないところに向かうはずがないというのを思い出す・笑)。しかしとあることの後、作中三度目の面接は室内で、ジョンだけが窓の外を、更に違うものを見ている。


「中」を見る、というのがキーである。ジョンが初めてクロ―リー(クリストファー・ロイド)の殺人&食人(というのか)を目撃するのが、全面ガラス窓の店の中から彼を目にして尾行した結果というのが妙に心に残った。あんな丸見えの場所から始めて、なぜ相手に自分が見えていないと思うのか(見えていなかったんだけども)。まるで無防備である。以降、床屋のガラスなどを経て、死体を盗んだ翌朝、道を挟んで、二人の間のガラスが消える。


とあることを言われてジョンを外へ追いやった同級生がゲームに向かう背中のアップ、あの感傷よ(そしてその頃には…)。ああいうの嫌いじゃない。