恐怖の報酬(1977)



シネマート新宿にてオリジナル完全版を観賞。同様に学生時代に見たクルーゾー版は多少覚えているのにフリードキンの方は皆目記憶がなかった、なぜだろう。クルーゾー版のイヴ・モンタンがセクシーだとか脚が轢かれて痛そうとかいう分かりやすさに対し、こちらは繊細だからかな。今が舞台だって全然リメイクできるじゃんと思いながら見た。


冒頭、ジャッキー(ロイ・シャイダー)のパートにおいて、教会で誓いの言葉を口にせんとしている新婦の目元に暴力による大きな痣がある。しかし誰も、神父さえもそのことには触れず、彼女は地獄へと送り出される。この映画は「それ」を異なる形でドラマチックに描いているのだとも言える。ただ今は「それ」を一緒くたにはしない、分けて問題視する時代だから、そのあたりには昔を感じた。


石油会社の不備で事故に遭った男の死体の袋の血だまりが強烈だ。死体を還された住民達の暴動を銃でもって抑えた会社側は「勇気ある者」とのアナウンスで運転手を募る。四人を除いた男達が「帰っていい」と(いうようなことを、多分)言われて戻る時に社のロゴの下を通るのは、日本然り、シンボルをくぐるというのは服従を表しているわけで、四人だけがある意味そこから外れる。パイプラインに沿う地獄もあるが、ラインを逸れた更なる地獄もある。


映画は所詮人ごとだから、どんなに恐ろしいものを見ようと「戻れない」という恐ろしさに真に震えることはない。これはその恐怖を感じさせる数少ない一本である(ちなみに私にとっての一番はずっと、「ロボコップ」でマーフィーが撃たれる場面)。進むか死ぬしかないという現実が、目に見える形でも潜んでいる意味としても焼き付けられている。


タンジェリン・ドリームによる有名なテーマが、マフィアのボスの「あいつを殺せ」からのジャッキーが「お前やばいぞ」と言われる場面で初めて流れる(「鼻」を怪我しているシャイダー・笑)。次に流れるのは殺し屋が到着するエンディング。あれは彼の死のテーマだったのか。最後に踊る二人の体の間の、狭くて小さいあの空間にだけ、この映画にずっと流れていたのと真逆の空気がある。フリードキンの映画って、寄り添ってる感は無いのに不思議と熱い。