スウィートハート/秘密のふたり

レインボー・リール東京にて時間の合った二作を観賞。


▼「スウィートハート」(2021年イギリス、マーリー・モリソン監督)は17歳のAJ(母親がつけた名前はエイプリル/ネル・バーロウ)のファッキンホリデーもの。「ただの牛として見なさいよ」に始まる、冒頭の車内やコテージといった密室での母(ジョー・ハートリー!)や姉とのやりとりから伝わってくる、彼女にとっての世界の地獄ぶりが直情的で引き込まれた。何を言ってもたしなめられたり笑われたり頭がいいと思ってる?と言われたり。彼女にとってそこは既に「社会」だが母はまだ違うと言う…のは日本の「社会人」なる概念を彷彿とさせる。

AJが同性愛者だとは家族の皆が知っており、その上で「同性愛者なのは『構わない』けど見てそうと分からない格好をしてよ」だの子どもは持てないだの鬱病が多いだのと攻撃してくる。この場面が大変辛くて、このことに対する直接的な謝罪がないままであの結末とは、家族であるということに少々頼りすぎの物語にも思われた。

面白いと思ったのは、何でこの人がこの人とセックスしてるの?つきあってるの?といったことが描かれている(そういう疑問を一瞬浮かばせる)ところ。後でなるほどと納得できるものもあるけれど、そういったことは他人の知るところじゃないというか、性的指向性自認とは異なるステージのグラデーションが世界にはあり全てが絡み合っているというか、そういうことを言っているように感じた。


▼「秘密のふたり」(2022年フランス、マリオン・デセーニュ=ラヴェル監督)はパリの公営団地に暮らすアルジェリア系フランス人ネジュマ(リナ・エル・アラビ)の「ガールズ版『ウエスト・サイド物語』」。「今日はどうだった?」「楽しかったよ、どこへ行ったと思う?『公園』」。ディエップに出掛けられればそこは天国という、オープニングに歩き回っている団地の中でほぼ生きているネジュマ。母親が「私達は自由を求めて来たのにあなたたちは監視し合ってる」と言うように、狭い世界でがんじがらめになっているティーンエイジャーの姿が描かれる。

あの女の子と会わないでと言われたネジュマが「私はジーナが好きだけど、そのことは二人の秘密にしよう、ほかの人には言わない」と約束すると妹が自分の耳を塞いでいた手を離す場面になぜそれで納得するのかと一瞬混乱させられるも、この映画は彼女達が何よりも、特に身近な相手のそれであるほど体面を守ることに必死なのだと言っているわけだ。ネジュマの方も「私には自律心がある」と言いながら妹の服装を注意し、「できればアルジェリア系のいい男性と」くっついてほしいと考えている。

妹は姉が女性を好きになることが許せず、つるんでいる仲間の一人は自分に話してくれなかったことについて怒り、ジーナの従姉は彼女を泣かせるなと頼む。一人一人の考えにはかように揺れがあるのに、どれもそこから発展はしないのがむなしくも心に残った。映画はそれをネジュマに帰しているふしもあるが、風が吹き歌う歌が流れる屋上からしか遠くが見えない世界は私には想像できない。