ロープ 戦場の生命線



ティム・ロビンス演じるビーの登場シーンに、スティーヴ・ベイターが吹っ飛んで(うすーい記憶の中ではそう、この映画のオープニングのような形で)死ぬ「テープヘッズ」を思い出した。あんな話じゃ全然ないけど、死体に始まりうんこに終わる「Perfect Day」を描いたロック映画でもあった。残念なのはエンディングに流れるルー・リードの「There Is No Time」に字幕が付かなかったこと。ベニチオ・デル・トロ演じる主人公マンブルゥがソフィー(メラニー・ティエリー)に掛ける言葉に通じる、あれがこの映画のメッセージなのに。


車の横に書かれているのがまず映る「Aid Across Borders」との文字を、新人のソフィーはぴかぴかの、古株のビーは古ぼけたのをしっかり身に着けているが、マンブルゥだけがそうしていない。冒頭の擦れて切れそうなロープこそ彼の心であり、自身が「(A) perfect day」を通じて新しいそれを探す話に思われた。よくあることだが、その一日の後にはそれは要らなくなる。探したことにより要らなくなるのだ。大雨と、ビーの「お前を待ってる人がいるところがお前のhomeだろ」に沿って言うならば「家族」が彼を助けてくれる。


全編を通じてデル・トロの息が荒いのが印象的だった。年のいった男が体を動かしているのだから当たり前といえば当たり前だけど、例えば少年ニコラの家にて、塀を乗り越える時、窓から室内に入り込む時、彼と違ってソフィーは全く静かである。それは彼女がまだ擦り切れていない「新人」だからだろう。


彼らが(それこそ「ロープ」で)「across borders」しているのは「(井戸のある場で)水が売り買いされる」と「井戸の水を汲む」の間、すなわち「普通じゃない」と「普通である」の間であるとも言える。二コラを連れての車での夜明かしに、カティヤ(オルガ・キュリレンコ)が「この子の両親は心配してる」と食って掛かっても誰も反応しないのは「何も言えない(=普通じゃない)」からだが、皆「何か言える(=普通である)」ことを望んではいる。翌日のマンブルゥの祖父への「いい子でしたよ」がその表れだ。


カティヤは始め、マンブルゥをロープの両端、「普通じゃない」と「普通である」、つまり「職場」と「恋人」のどちらからも断ち切る危険物として登場するが、そうじゃない。彼女が痴話喧嘩を持ち掛けるように見える…恋人がいるならいるとはっきりさせなかったことを責めるのは、いるならいるで彼をそちらに返そうと挑発するのは、和平協定の後に尚も問題が存在する曖昧な世界を拒否したいからなのだ。それに対し現場のマンブルゥは「俺たちには死角がある」「地雷が埋まっている」と訴える。


だからこの映画の「一番」は、立ち往生の翌朝に目覚めたカティヤが作中初めて見せる、「なんだ、ただの牛か!」との吹っ切れたような笑顔である。その後の彼女は「決まり」を越えた、それこそ「There Is No Time」の心情になる。尤もそうは言っても、自分が役者というわけでもないのに、いいよね男はあんな役の方がやれて、幾つになっても仕事があるし、と思ってしまうけれども。