悪党に粛清を



デンマーク出身の監督、脚本家、主演俳優による西部劇(宣伝によると「ウェスタン・ノワール」)。乾いた地で人の目ばかりが湿っている、悲しみや恐怖など全てがそこに表れている映画だった。


オープニングはどうやら「西部」の駅。ぼやけて見えないまま移動するカメラが主役のマッツ・ミケルセンを捉えると、陳腐な言い方だけどそのスターのオーラに圧倒される。顔のアップが多いこともあり、マッツの顔面力が炸裂している。
とんでもない風に砂が舞う中、びっくりするほど黒い煙を吐く列車がやってくる。ホームで待つジョン(マッツ・ミケルセン)と妻子の再会シーンに、先月見たヴィゴ・モーテンセンの「約束の地」を思い出してはっとした。この映画は違うカメラマンの手によるものだけど、ヴィゴが撮影を依頼したティモ・サルミネンの映像と通じるところがあったから。まごうかたなき「北欧」の画。実は私はティモについて、彼の個性がよほど強いと思ってたんだけど、あれは北欧の個性でもあったんだね、超、今更ながら。
ジョンと妻子が乗り込む駅馬車は、「駅馬車」などの駅馬車よりも随分広々として見えた(もしかして「スクリーンで見ている」からじゃないよなあ!笑)銃もぴかぴかしてきれいだった。そういうところも「北欧らしい」んだろうか?


(以下「ネタばれ」です)


シンプルな快感を打ち出すよりも、細かい編み込みで魅せる映画だった。宣伝から想像していたのと最も大きく違ったのは、ジョンとマデリン(エヴァ・グリーン)が「共に闘う」わけではなく、最後の最後まで顔を合わせないところ。これがよかった。「始末」を付けた二人は銃を向け合うが、マデリンの方からそれをおさめて背を向け去ろうとする。
その後、闘って死んだ「あと2カ月で16歳」の少年の死体と、おそらくそれを見やった、立派なバッジを着けた保安官達の顔が映る。悪のボスにさえ「事情」を持たせるこの映画において、「いつか君(ジョン)のような人が表れると思っていた」とのうのうとしている奴こそが最も悪いとでも言うように。「待っていられる」余裕のある者と「待っていられない」切羽詰まった者がおり、後者であるジョンとマデリンは、前者である奴らに銃を向けるのだった。
それにしても、男に美女と思われるとろくなことがないと思わせられる映画は多いし、現実においても(「美女」とまでいかなくても)目を付けられていいことは無いのに、どんな人間にだって性的に好かれた方がいいに決まってるという考えが無くならないのは不思議だ。男女カップルを成立させるためのお上の陰謀すら感じる(笑)


マッツのお兄さんはそんな人じゃないよ!と(実際の兄の)ラース・ミケルセンを思い浮かべながらも、本作の兄役のミカエル・パーシュブラントがとても素敵なので調べてみたら、ハルストレムが久々にスウェーデンに戻って撮った「ヒプノティスト」(感想)の主役、というかレナ・オリンの夫役の人だった。西部劇だと全然違ってて、超似合ってて惚れてしまった。角度によって大したことない時とびっくりするほどかっこいい時がある不安定さも魅力的(笑)