世界は僕らに気づかない


オープニング、純悟(堀家一希)とレイナ(ガウ)が暮らす家にあふれる小物の数々につき、フィリピンのなんだろうなというものから金鯱の置物など母親のお客絡みなんだろうなというものまで彼らの家にあるだろう物を調べて揃えたんだと思い、そこでぐっときた。純悟を捉える屋上の柵や自転車のサドル越しの映像は見る者の存在、すなわち作り手の、私は見てる、あなたも一緒に見ようという意思を感じさせる。ラストシーンの違和感を覚えるほどの拍手の規模も作り手と私達が一緒に送ったからなのだ(だからこそ、パートナーシップ宣誓制度だけでなく「普通」の結婚ができればと思う)。

最初の親子の会話は父親からの養育費を電気代に充てるか否かという言い争い。「マミーの子なんだから言うこと聞いて当たり前」と家族と全てを共有して生きてきた母親とそこから逃れたい息子の間の齟齬。それは「気付かれない」者達の間に生じる断絶であり、作中のかなりを占めるマミーの怒号はその叫びに思われた。予告では「フィリピン人で、フィリピンパブ嬢の子なんで」で切れている純悟の言葉に続くのは送金地獄との一言だった。映画はその家族のあり方を否定はせず、しかし意思による、当人の幸せのための家族の誕生を焼き付けて見せてくれる。

わざとらしく機械的に撮られているだーい好きだよ!が客への営業電話という日常に埋没し純悟に向かうことがないのも、いつまで経っても漢字を覚えないのも、レイナに「そんな暇はない」からであって、鮭の食卓で「本当にほしかったもの」を打ち明けられた彼女が「なーんだ、そんなもの」と返すのには、張り詰めた部屋に吹き込んだ一陣の風を感じて涙が出た。作中ではずっと息子が母親を見ているのが、映画の終わりの終わりには母親の方こそ息子をずっと見ていたことが明かされる。

例によって「教員は何やってんだよ」(お弁当のシーンね)と腸が煮えくり返るが、教師が絶対言ってはいけない「真面目に考えなさい」(なぜ真面目じゃないと思うのか?)然り、教会のシスターまでもが、純悟の家族に対する言葉をまっすぐ受け取めようとせず距離を置く。彼らは露骨に差別するわけじゃないが役には立たないし、差別してくるやつもうようよいる。家族の誕生にあたりよろしく頼んだり頼まれたりが頻繁に行き交うのを始め奇妙な気持ちで見ていたけれど、こんな世の中じゃそれが必要なんだと、つまりそれが要らない私は呑気なものなんだと気付いた。

一つ引っ掛かったのは、渡辺や元木といった「普通」の結婚をしている(していた)「普通」に見えるおじさん達に甘すぎないかということ。そういう夫婦関係もあろうけど女性に負担を強いすぎである。渡辺の「彼女達の笑顔を見ていると…」なんてセリフも、「フィリピンパブ」を巡る問題自体に触れない姿勢は理解するが今の構造を肯定しすぎだと思った。