ミナリ


「家」を目指す2台の車。引っ越し会社のトラックで先達している父親「ジェイコブ」(スティーヴン・ユァン)の姿は現地まで明らかにならない。降り立った彼と母親「モニカ」(ハン・イェリ)の夫婦間では韓国語、韓国へ行ったことのないアンとデヴィッドの姉弟間では英語で会話がなされているのが、父親の「お前達にいいものを見せてやる」への「ne~(私には「de~」に聞こえるんだけど、いつも)」からしばらく、子の間でも韓国語が交わされる。そのうちそれらは入り混じる。

「あそこにミナリ(セリ)を植えたら育ちそうだ」「考えとく」「何を考える?私が植えれば済む話じゃないか」。これがジェイコブにとって義理の母であるスンジャ(ユン・ヨジョン)と彼の作中唯一の会話というのが忘れ難く、私にはこれはまず、家長は采配を振ろうとするな、全てを背負おうとするな、皆で分かち合え、それが家族のためなんだという話に思われた。家の中よりも農場に水を回し、大きな段ボールを抱えて診察室に出向き、ビッグなガーデンに心血注ぐ父親は体を痛めてしまう。息子が重い引き出しを持ち切れず足の上に落としてしまうように。

それにしても、「幸せな時が一番可愛い」だなんて私はそんなことを言う人とはやっていけないなと思っていたら、顔に出さずともモニカもずっとその問題を考えていたのであった。「ダメなら君は出て行っても構わない」って、なぜ一緒にいることよりも仕事が優先されるのか、そういうものじゃないだろうと。序盤、「おばあちゃんが来たらパパとママは絶対喧嘩しない」と子に誓う彼女の顔がアップになるのになぜここでと思ったものだけど、振り返ると意味を付与することができる。彼女は母親の「役に立たなさ」を予感しており、家の中にそれがある状態を求めていたのだと。

ひよこ工場で「廃棄」の意味を尋ねて「おれたちは役に立たなきゃならない」と父親に諭されたデヴィッドは、家でテレビを見るばかりの祖母の姿に戸惑う。クッキーを焼かず悪口を言い男物のパンツを履くおばあちゃんは「らしくない」、役割を果たしていない、と混乱した末にあんな悪戯をしてみれば、そのことにより、役割を大切にしている当の父親に「外から(自分を叩くための)棒を取ってこい」と叱られる。その矛盾に対抗するために枯草を持って行くという、まあ一種のユーモアを使うくだりが面白かった。この映画は幼い彼を混乱させた祖母がいわばその役に立たなさを爆発させた後に、孫二人がそういう家こそ私達の家なのだと認めるのに終わる。

印象的なのが「父親の椅子」。冒頭、次の家長であるデヴィッド(やがて彼がこの物語の主役なのだと分かってくる)がそこに座って穴の空いた自分の心臓の音を聞く。終盤、父親は「初めての客」としてポール(ウィル・パットン)を迎えた一家が自分の意に沿わない、制御下にないことをしている時、どうしていいか分からず「父親」であることに頼ってただ椅子に座っている。それが火事の翌朝には椅子には誰もおらず、引っ越しの晩だなんて理由がなくとも皆で「楽しい」雑魚寝をしている。彼らは真に再出発を果たしたのである。