アクト・オブ・キリング



シアター・イメージフォーラムにて観賞。平日の午後に補助席&立見も出る盛況ぶり。
予告から想像してたよりずっと、あまりに複合的で、そりゃあ何だってそうだと言えるけど、頭がパンクしそうな映画だった。とはいえ整理するためにまた見たいとは思わない。「内容」と「外見」を切り離して考えることは出来ないけど、何となく言うならば、「内容」はもう一度見れば面白さが増しそうな感じだけど、「外見」の方は再見するほどの面白さに欠ける。


冒頭、水辺に置かれた大きな魚の口から赤い舌が伸び、「喜び組」的な、しかしもうちょっと憮然とした感じの女が次々と出て来る。滝のしぶきをバックに体を動かす彼女達に「演技指導」の声が飛ぶ。「自然に、美しく、見せ掛けじゃなく」。そりゃあ無理だ、「演技」と「真実」の間には乖離があると思う。
中盤、かつて「共産主義者」を大虐殺した殺人部隊のリーダーであるアンワルが映画出演のために白髪を染め、入れ歯を新調しながら言うには「ブランドやパチーノ、ジョン・ウェインに憧れて、映画を真似て人を殺してた」。彼は人殺しの際に「演技」もしていたことになる。「演技」と「真実」はやっぱり分かち難いものかと思う。
それでは、かつて映画を真似て人を殺していた人間が、それを映画のために「再現」する場合はどうか。こうなるともう、訳が分からない。更にアンワルは「被害者」をも演じ「その気持ちになった」と言う。監督に「皆はもっと怖かったはずです、死ぬと分かっていたから」と返されると「いや、私には『分かる』」。まあ、そう思うのか、と思う。この映画の「オチ」には拍子抜けすると同時に、あれだってどこかに引用元があるのかもしれない、と思う。


「映画」のクライマックスの大量虐殺シーンを撮る日、大臣が視察にやってくるというので、アンワルの相棒のギャングのヘルマンが出演者を鼓舞する。「世界が見るぞ!ロンドンも!」…この「ロンドン」というのは、以前のやりとりからして「(暴力を扱う映画である)007シリーズの原産国」という意味だと思われる。そっか、「映画(この場合007シリーズ)」を見ているだけじゃ、その作り手(と価値観等を共有する人々)に自分達の行為がどう捉えられるのか分からないものなんだな、すなわち、私が映画を見て、作り手はこういうつもりなんだろうと「分かる」(分かったつもりになる)のは、その映画に含まれた情報以外の何かを参照してるんだなと思った。ヘルマンが後に議会選挙に立候補するのに、オバマの演説をテレビで見ながら鏡の前で練習する場面にも、このことに通じるものがあるように思われた。
大臣の方はきちんと(?)狡猾で、出演者達の熱のこもった演技に対し、もっと「野蛮じゃない」ふうに撮影しよう、今の映像は「我々が怒ると怖い」ことを示すために取っておこう、と言う。この巧妙なこと。


結局は「金」なのだということも明らかになる。出自が「映画ギャング」(ダフ屋)であるアンワルが言うには、「共産主義者アメリカ映画を追い出した」ため映画産業が斜陽になり収入が減ったことが、彼らが共産主義者を憎む理由(の一つ)。また「共産主義者の分厚いリスト」に載っていながら「金のために」生かされた者達もいるという。金を出すか、出さずに殺されるか。この後に挿入される、彼らが市街を回って汗だくでお金を取り立てる一幕は、現在の様子なのか「映画」のための再現なのか分からなかった。


所々に挿入される街の様子も面白い。列車の通過を待つ間に「交通規範はあなたの家族を守ります」というアナウンスが流れるのは、後の選挙の賄賂のくだりと合わせて、ここらあたりでは、利益によってしか人は動かない(と認識されている)のかな、なんて思う。
この映画は「ぱっと見」ミクロで、民兵組織であるパンチャシラ青年団が「世間は我々を嫌う」と言う、その「世間」がどういうものかは分からない(それが「よくない」という意味ではない)。例えば街中の広告写真には若い男性も結構見られるけど、本作が捉える界隈にそういう空気は皆無で、とにかく女性ばかりが消費されているという感じを受ける。


それにしても、「ギャングによる映画作りの話題です!」とにこやかに始まる国営放送や、作中最後に撮影される「メダル」のシーンなど、本当に本当に、ギャグにしか思えない。終盤アンワルが、孫達に「アヒルに謝りなさい、わざとじゃなかった、ごめんねって」と言う場面も、少し前の釣堀?での、同胞による「謝るなんて簡単なのに」「俺達が責任取るわけじゃないんだから」との言葉に彼がだんまりを決め込んでたのを思い出すと笑ってしまう。


冒頭の「魚」のシーンの次に本作の経緯が英語のテロップで示されるんだけど、画面の左側にくるくる回る広告に目がいってしまい気が散る。カメラが引いて、ビルの屋上のこれは何だろうと思っていると、後にその「正体」が分かる。これらの、私には「意義」のよく分からなかった映像のトリッキーさは、作中作られている映画の(可能な限りの)大仰さに対し、既存のものを使ってもこういうことが出来るんだ、というカウンターのように思われてならなかった。