アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち



アイヒマンについて、作中の映画監督レオ・ハーウィッツ(アンソニー・ラパーリア)がイスラエル入国時に吐き捨てられる「殺して南米に捨てればいい」、裁判前に撮影スタッフの一人が口にする「あいつを刺したくない者なんていない」。私だって確かに、そのような感情に支配されそうになる。
この映画の「『個人』の問題ではない、ということをメディアが伝えんとする(映画自体もそれを伝えんとする)」というテーマは、公開中の映画「スポットライト」にも通じる(「個人」でなく何が責任を負うべきとされるかというと、あちらは「システム」、こちらは「人間」)。実在する仕事人を演じるマーク・ラファロマーティン・フリーマンの、色気と可愛さの抑制具合を比べてみるのも一興。尤も私は彼らの魅力に鈍感だから、分からないだけでどちらもダダ漏れなのかもしれないけど(笑)


この映画には多くの要素が混在し、幾つもの「問題」が次々と現れるが、それらは都合よくも見える程にうまく「処理」されていく。まるでマーティン・フリーマン演じるミルトン・フルックマンの、「プロデューサー」の仕事とはそういうものなのだとでも言うように。
前半に顕著な言葉の「繰り返し」の編集は意味が分からず煩く感じたし(もしかして「クライマックス」に「本当に」繰り返される「because of you」に掛けてるんだろうか?)、撮影許可を出さない判事達を説得するためのレオの「賭け」の場面に流れる「ドラマチック」な音楽には辟易してしまった。脅迫状が届いた朝にミルトンが妻に対して「君がやめろと言えばやめる」なんて軽いよね、だって「卑劣な人間に負けるの?」と返す、そういう相手と結婚したと分かって言ってるんだから!


そんな中に立ち上がってくるものが二つある。まずは「サバイバーが体験を語る事の重要性」。イスラエルの報道官が「この国ではサバイバーは蔑まれている」と口にするのを始め(後に「この国は新生児だ、自分の足で立つのに忙しい」との、その理由めいたセリフあり)作中通じてホロコースト生存者の苦闘が説明される。ホテルの主人いわく「皆が何を体験したのかと訊ねるのに、話すと嘘だと言われる」「だから黙るようになった、寝言以外は」。カメラマンは、自らの体験を語ることで落ち着きを取り戻す。そして勿論(「比較的」ではあれ)思い出さずに済む処に逃れてもいいのだ。
キューバガガーリンに視聴率を取られ」て焦るミルトンやレオは「証人さえ出てくれば人々は釘付けになる」と言うが、当の証人(サバイバー)達は、裁判やメディアによる放送がなければ誰にも話を聞いてもらえなかったというのは皮肉なものだ。ハンナ・アーレントによれば、その後のイスラエルは「揺り戻し」とでもいうような状態になるんだけども。


もう一つは、例えば裁判を傍聴して考察するのと、元々持っている考察を表すために「作品」を作るのは違うということである。出発時、鞄に家族の写真とラウル・ヒルバーグの本を入れる作中のレオは、「アイヒマンも我々と同じ人間であると証明しなければならない」との信念から、彼ばかりをカメラで追う(よう指示する)。
加えてユダヤ人であるレオは、イスラエルに移住してきたユダヤ人に対してのいわば「混乱」をも抱えている。「(エルサレムに居る時に)いつも街を見ている」のは、彼らの心を知りたいからである。「気分転換」のドライブの途中に遊牧民に遭遇した際には、「国境とも政治とも関わらない」彼らの仲間になろうと冗談めかして言う…が、あれは本心だろう。彼に「ここが好きか」と問われたホテルの主人は「世界がこの国を私にくれた、今は私の故郷」「ここでは安心して眠れる、ユダヤ人なら分かるはず」と返し、これまでは着なかった半袖の服から「番号」をのぞかせる。ここには「サバイバー」とそうでない者との距離もある。


「サバイバーが体験を語ることの重要性」と「考察をもってドキュメンタリーを撮ろうとすることによる行き詰まり」が、終盤、レオの中でようやく溶け合う。あの大きなチョコレートケーキの味を、私も食べたつもりで想像する。この映画が面白いのは、誰がではなく「何故か」が大切だ、終わった事と済まさず「学ぶこと」が大切だ、との信念を持つレオが、「アイヒマン」に固執するあまり他の要素を無視してしまうという過ちに陥るというところ。彼の考察は「正しかった」が、それは結果であり、よしとされるべきではない。
ラストはミルトンの「仕留めたな」、すなわちレオの考察通りの結末を迎える。二人は最後、硬く手を結ぶ。それぞれの「その後」が文章で示される。テレビが「最も新しいメディア」だった時代の話だったんだなあと思う。