パリよ、永遠に



チラシには「もしも『パリ』が消えていたら」というお題に答えた有名人のコメントの数々が載っているけど、そんなことには思い至らず、最後の「彼」に向かって私は何か言葉を投げ付けるだろうか、などと考えた。「愛国」というんじゃなく、愛を持つことが出来るか否か、愛ゆえに何かをすることが出来るか否か、そして、愛は幾らだって持てるのだ、という問題。
ただし「パリ」の特別性とでもいうようなものを強調した宣伝はあながち外れていない。スウェーデンの総領事ノルドリンク(アンドレ・デュソリエ)は、パリ壊滅作戦を命じられたドイツ占領軍の司令官コルティッツ(ニエル・アレストリュプ)に対し、ホテル・ムーリスのスイートルームの窓からの眺めを背景に、この都市がいかに特別であるか滔々と語る。それが便宜であれ、この映画自体もそれを謳っている。


ドイツの敗戦色濃くなった1944年8月24日深夜。相変わらずの徹夜のコルティッツが、いかにもきつそうなブーツを部下に履かせてもらい、よっこらせとばかりに上着を着させてもらう。この描写と、「最後の命令」の後でノルドリンクを帰しての、作中初めてのコルティッツ目線の「執務室」のカット(これが何とも効果的)に、彼の「軍人」では無い部分を感じる。映画の終わりに、彼はノルドリンクに手助けされ、心のままに進んだのだと思わせられる。
コルティッツは「父も祖父も軍人だった」「先祖はナポレオンと戦った」という根っからの軍人。しかも、到着するなりホテルの食糧を根こそぎ奪う若い士官達との対比により、上に従う以外の無駄な事をしない「昔ながら」の軍人だと分かる。今現在はヒトラーにつき「目は血走り口から泡を吹き、これが心酔していた我が総統かと」疑い命令を聞くまいと思っているが、「赴任前日に」公布された親族連座法により家族を人質に取られ、板挟みとなり苦悩している。


「舞台」が暗転し再び明るくなると、映画の冒頭に登場したきりだったノルドリンクが現れる。「ナポレオン3世の隠し階段」を通って侵入したのだ。「愛」…か否かはともかく、逢い引きに使われた道を利用して相手を出し抜くなんて「フランス映画」らしい演出。加えてその手段は一度しか使えない切り札であり、同時に自らが「工作員」ではない(もしそうなら彼の手引きによりコルティッツは既に殺されている筈だから)ということの証明にもなるという上手い仕掛け。それにしても現地の誰も入手し得ない情報をなぜ彼が?と思っていると、ラストに(いかにもフィクションめいた!)「オチ」がある。
スウェーデンは常に中立を保つ」と言うノルドリンクに対し、コルティッツは「ベルリンが連合軍に壊滅させられた時、中立国は声をあげてくれたか?少なくとも(パリ壊滅を防ごうとする)今のようにはあげなかった」と責める。こんなに重要なやりとりなのに、ノルドリンクがどう答えたか忘れてしまった…しかし、しばらく後にコルティッツが口にする「それぞれが平等にやられる、それが戦争だ」という言葉でうやむやにされたという印象が残っている。


冒頭、コルティッツとエーベルナッハ大尉の「穴を掘ってユダヤ人を埋めた」とのやりとりに、見たばかりのランズマン特集上映の内容を思い出さずにはいられなかった。(「以前」ではなく「作中」の)コルティッツの姿に「不正義の果て」のユダヤ人長老を重ね、細かい部分は違えど「板挟み」の、しかも瞬時に判断しないと自らの命が危ないという状況に置かれる人間というのは世に数多おり、あの長老がその「最たる者」だったのだと思う。多くの映画の登場人物の「実例」であるとも言える。
勿論、ランズマンの(「演出」が大仰になされているとはいえ)「ドキュメンタリー」に対し本作は大変フィクションめいており、どちらにも意義や面白さがあるけど、こちらを見ると、今更無理な話だけどやはりこの件に関する「ドキュメンタリー」が見たくなる(それが「パリは燃えているか」…では無いよね)


エンディングに流れるジョセフィン・ベイカーの「J'ai Deux Amours(二つの愛)」は、最近見た中じゃ一番の、「この映画の終わりにぴったりな歌」。フォルカー・シュレンドルフ監督のことでもあろうし、作中の人物のことでもあろうし、自分自身にも引き寄せて聴いた。



「私には恋人が二人いる
 それは故郷とパリ
  (略)
 故郷は美しいけれど
 私を魅了するものを否定して何になろう」