ハンナ・アーレント



哲学者ハンナ・アーレントが、ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判記を執筆した時期の実話を元に制作。随分前にタバコはやめたけど、それでもちょっと吸いたくなる、というかハンナに合わせて火を点けるとその心に沿えるんじゃないかと思わせる映画だった。


オープニングクレジットもエンドクレジットもニューヨークの夜景。ハンナが暮らすアパートは川沿いにあり、仕事部屋はビル群を望む大きな窓に面している。ドイツから亡命し「18年間無国籍だった」彼女は、学生に「アメリカはどんなところでしたか?」と聞かれて一言「パラダイス」。終盤、記事に対する抗議が寄せられ「騒動」となった際には夫に対し「ここに来て20年も経つのよ、もう移住したくない」。しかしハンナが作中最後にハイデガーに会った際の言葉…「ユダヤ人の味方をしろと言うの?私にとって大切なのは友人達、それが本当の愛情」…からして、彼女はニューヨークという「街」自体に愛着があるわけではないのだろう。最初と最後の夜景が意味するものは、そこに「人々が居る」ってこと、誰が何を考えているだろうってこと。川の向こうじゃない、同じアパートの住人から手紙を受け取る場面も効いている。


ザ・ニューヨーカー」誌に売り込みの手紙を書く際、ハンナは「(実際に被害に遭ったユダヤ人の自分が、ナチス戦犯であるアイヒマンの)『生身』(flesh)を見てみたい、と書いた方が受ける」という戦略から、そう記す。それを読んだ編集者は「哲学者なんて抽象的な概念ばかり扱ってるから、生身が見たいんだろう」と揶揄する。
しかしエルサレムの裁判所において、ハンナが見るアイヒマンは「生身」ではなく、彼女によれば「ガラスケースの中の亡霊」。そのセリフの後に実際の記録映像が流れる場面には、確かに亡霊を見ているようでぞっとした。ハンナは「亡霊」の姿を一度?確認した後は別室でモニター越しに、時には声だけ(もしかしたら「こちら側」にもモニターがあるのかもしれないけど)を元に考えをめぐらす。彼女にとって、「生身」であることは(現場に行く前から!)大して意味がない。それが面白いなと思った。


「哲学者」と「雑誌編集者」のやりとりに見る両者の違い…もっとも両者、特にハンナの性分によるところも大きいだろうけど…も面白い。「哲学者は書くのが遅い」と始めからよく思っていない女性編集者にせっつかれた男性編集長?が、ようやくハンナと向かい合う…「それでは始めようか」。「これはどういう意味かな?ギリシャ語?」「『存在』という意味よ」「読者は分からない」「学ばなきゃ」。
ハンナは書いたものを右から左にと渡さないばかりか(ただし夫には書き終えてすぐさま見せる)、「一度に」読んでもらうことにこだわる。最後にハイデガーに会った際にも、冷たく傲慢だと非難されると「全部読めば(そうでないと)分かる」と返す。これは私に向かって言っているようでもあった。映画は彼女の主張を噛み砕いてシンプルに伝えてくれるけど、その程度で済むなら長い文章書く必要ないものね、なんでもそうだけど。


夫ハインリヒ(アクセル・ミルベルク)は登場時、朝帰りした所にハンナが声を掛けるとうっとうしそうに顔も見せず部屋に入っていくが、彼女が「今朝の新聞」の話をしたいのだと分かると、やって来て楽しそうに会話をし、キスをする。「君のためだよ」と痩せた(ふり?をした)り、彼女の留守に(心臓に悪いからと)禁止されているステーキを食べたり、食えないやつとも言える(笑)
ともあれハインリヒと親友のメアリー・マッカーシージャネット・マクティア)はハンナの「味方」だ。二人はハンナと熱心に議論をし、彼女の不在時に誰かが彼女を非難すると強く弁護する。ちなみにジャネットの「巨乳」は、今年の私のベストテン入りするであろうお気に入り作品でもポイントなんだけど、本作でも乳を揺らしてこちらに走ってくる場面が二度程あり目を引かれた。自分の胸が揺れるのは野暮ったくて嫌いだけど、彼女の場合、頼りになる雌牛って感じで悪くない。