ムーンライティング



シネマート新宿のイエジー・スコリモフスキ特集上映にて観賞。1982年イギリス作品。
たまたま時間の合う回に出向いたら、見たことのないこの作品で、あまりに面白くて嬉しくなった。「お話」も面白ければ、映像も面白い。幕切れも最高。


オープニングは自分の髪を編みながら空港のアナウンスをする女性職員の顔のアップ。その女性が「普通」ぽいだけに心が躍る。まだ30代のジェレミー・アイアンズの、若さも感じられる美しい声による語りが全編に渡って聞けるのも楽しい。冒頭の空港での一幕、入国審査の際に「中古車を買うために来ました」と言う練習をするというの、モノローグなのに潜めた小声になる。その辺で更に惹き付けられた。


空港からの車内でタイムズ紙を読むジェレミー(作中通じて、彼は一人懸命にタイムズ紙を読む)。ティナ・ターナーのコンサートの記事。「観客は政治色を廃したショーに喜び、彼女の声と脚に注目したが、その裏にある政治色にこそ熱狂したのだ、そして彼女が『何が欲しい?』と煽ると、彼らは応えた『ドルだ!』と」。ここで挿入される、「私も妻と出掛けた、社長と一緒に、妻を間に挟んで」の静止画で、社長を睨むジェレミーの異様な表情。この時点では「何」の話だかよく分からず、ただただ緊張感に心が掴まれる。


ポーランドからロンドンにやってきた4人の男達の目的は、とある住宅の改装作業…不法労働だった。「英語が話せる」(正確には「英語は分かるが、彼らが本当に何を言っているかは分からない」)という理由で渉外役に選ばれたジェレミーは、中間管理職として仲間を束ねる。無表情に家の中を壊していく男達の様子に、なんだこのおっさんコメディは…と頬に笑いが溜まるも、途中から、全部じゃないけどそれを飲み込むはめになる。ジェレミーは、近所の中国人いわく「ポーランドが『無くなった』」というニュースを仲間にひた隠し、経費節減のためスーパーマーケットでの万引きに勤しむ。「いまや安全なのはこの家の中だけなのだ」。大いなる馬鹿に見えて、この彼は決して「変」じゃない、私でもこうなるかもしれないと思う。


ジェレミーは空港で、カート置場を尋ねる女性に、一旦は指で指し示すも自分のを譲る。空港からの車内では、進行方向と逆の座席に座る。買い物を抱えて家に戻り、頬に触れる邪魔な紐を、振り払うではなく引っ張って灯りをつける。こうした描写に、彼はこういう人物なのだと思う。私としては、テレビが壊れたことに苛立ち壁をぶち破る仲間においおい、としてみせる仕草に、ああジェレミーだ!と思った(笑)
男達は、ジェレミーは「脇目もふらない」。街中の「女」達(半地下の窓から外に向かって裸になる女に意味はあるのか?)、通行人、動物。脇目も振らない、ということは脇じゃないところばかりはしっかり見ているわけで、時間や物資の節約に邁進し、故郷の「アンナ」に執着する。


見ながら不意に「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」が頭に浮かんだ。勿論カウリスマキの映画にはこのような生「っぽさ」は無いし、「政治色」はあれど「即時性」は薄い。でも、全く違うキャラクターなのに、時折ジェレミーがマッティ・ペロンパーに見えた。彼ら「リーダー」の言うがままに、英語を話せず(レニグラメンバーは「練習」してるけど)ただ黙々と並んで働く男達の姿に、「映画における共産圏」を感じたからだろう。