最近見たもの

▼悪なき殺人

冒頭登場するアリス(ロール・カラミー)の顔に、これはセックスしに来たなと思っていたら、これは愛欲と、不吉に響く「行方不明になった女は夫を愛していなかった、夫の方も。あなたはどう?愛し合っていれば大丈夫」…じゃない場合は発生する金銭(あるいは不機嫌)、それらを「偶然には勝てない」がまとめた一幅の絵の全景を、一歩一歩後退しながら見せてくる映画であった。オープニングに実は示唆されていた、テレビの映像や写真、話には出てくるが登場しない人物が頂点であることが最後に分かる。(元)宗主国の、家長。

絵の前から後退して全景が見えてきたところでストーリーが前進に転じる時、ミシェル(ドゥニ・メノーシェ)が遠くかの地に降り立つ姿にマスクの中でえっと小さな声が出てしまった、「まじでそこまで?」という驚きに。このエネルギーがこの話の推進力なんだろう。更に後のPCの前での笑顔は妙味があったけれど、ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ出演作なら同様に彼女が金持ちの妻を演じた「人間の値打ち」の方がずっと肉薄感があり面白かった(パオロ・ヴィルツィ監督作なら更に面白いものがあるけれど)。

▼天才ヴァイオリニストと消えた旋律

「岩みたいによりかかれる」と言われた、「強い」国と父親をバックに持つ素直な少年マーティン(長じてティム・ロス)が、35年動かなかった末に動き出す。ドヴィドル(長じてクライヴ・オーウェン)と出会った晩の「英語もろくに喋れないくせに」に「ロシア語は話せる?ポーランド語は?」と返された彼が、おそらく初めてのワルシャワで英語が通じず困惑する。後半のある場面、二人の表情から彼らがもうチームにはなれないことがはっきり分かる。グリンダ・チャーダの「英国総督 最後の家」などもそうだったけれど、片方がある生き方しかできないゆえにもう決して心が沿うことはない間柄というのがある。それを描いている映画は好きだ。

少年ドヴィドルが師匠なしでレッスンするのに驚いたものだけど、戦局のためにロンドンを発ってしまっていたのである。そういう例につき考えたことがなかった。師匠がいないなら客もいない、いや持たない、ドヴィドルが去ったのは客の前で演奏することに意味が無くなったからなのだから。「個を捨てたぼくはもうアーティストじゃない、君はぼくに個を取り戻してくれたけど、それは望まない贈り物だ」。鎖の一つになることを望めばもう芸術家ではなくなるが、そういうふうにしか生きられない命というのがある。そのことについての物語だった。

▼皮膚を売った男

この映画の根底には恋愛ドラマがある。オープニングの列車内、主人公サムがあの状況において「これは革命だ、ぼくらは自由が欲しい」と叫ぶのが、今なお恋愛を描くことが自由を描くことに繋がる舞台、場所があると強く再確認させる。ラストの「ぼくはずっと自由だった」と猫に繋がっている。更に言うなら、前半に既視感があるのは、話の始まりが愛人のそれと似ているからだろう。偉い男の愛人になればどこでも出入りでき高級な生活が送れる。この話ではそれとは違うんだとでも言うようにサムのタトゥーや芸術家との関係に性的なものを一切感じさせないよう気を遣っているように私には思われた。「ピグマリオンの真逆」なんてセリフが出てくるのも。

序盤のサムのベイルートでの日々の描写には、少し前にニュース記事で読んだ、美術大学の学生の卒業制作だったか、裕福に見えるほど更に裕福になれるという話を思い出した。金持ちは金持ちの集まりでただで食事できるが「シリア難民」はパーティで食べ物をもらおうとしても追い出される。アビールの夫が「大使館が閉鎖されても給料をもらってる」のも「裕福であるほど裕福になれる」一例だ。サムがベイルートの仲間には契約の内容を話すがアビールやシリアの家族に嘘をつくのは、前者は同じ暮らしを経験した、分かっている間柄だからだろう。家族とのスカイプの場面は互いに辛いのに画面の向こうの方がましなんじゃないのかと思い合うのだから、あんなやるせない状況ってない。