ヴァイオリン・プレイヤー



フィンランド映画祭2018にて観賞。2018年、パーヴォ・ウェステルバリ監督作。


人生の決定的な時は物語の終盤に置かれるべきじゃないか、という晩年のクリスティも達した境地をトリッキーに見せてくれる。ラスト数分で、孔子のあの言葉を引いた意味と真に音楽映画であることがはっきり分かる。物語の早くにも気付けそうなものだけど、未熟で愚かな主人公をともすれば私も同じようなことをしていると腹を痛めながら見ているうち心がそちらに沿ってしまう。おかげで彼女が最後に味わう、自分自身を掘り起こしたかのような驚きを一緒に味わえる。


(尤も馬鹿が馬鹿のままである映画だって、特にそれが女なら全然いいと思うから、そうでない本作はつまらないほど道義的に真面目な映画だとも言える)


タイトルに反し、カリン(マトゥレーナ・クースニエミ)がヴァイオリンを弾くのは冒頭だけ。とりあえず就いた教師の職に励むでもなりたいと口にする指揮者に向けて努力するでもない。作中最も緊迫する場面で主人公が「何もしていない」という奇妙さよ、いや何もしないことしかできないから私の腹も痛くなるのだ。振り返ると、男三人が「一人」でやっていくことになる中(うち一人は当初より「一人」だが)遅ればせながら彼女もそう心に決める話だとも言える。


ビョルン(キム・ボドゥニア)のアンティへの「イタリア語でどういう意味だか分かるか」のくだりで、数か月も一緒にいながらそのことに一切触れなかったカリンは教師でもなければ指揮者への道も遠いと分かって衝撃を受けた。アンティは彼女のことを(英語字幕じゃ)braveと言ったものだけれど、最後のあの手にそれが窺えただろうか。あの熱情でもって「どんな感情でもいいからぶつけろ」「大きな翼の下にいろ」と言えるまでになるだろうか(こんなことを口にするビョルンは随分といい役だ・笑)


気になったのはカリンの服のほつれ。オープニングでステージに立つドレスにも、アンティと初めてキスした晩に夫のベッドに潜り込む際のスリップにもほつれがある。音楽に向かっていた心が綻びかけていることを表しているのかもしれないけれど、私としては、ほつれがあるとそれはもうほつれのある服でしかないということにしみじみ気付かされた。