ソウルに帰る


初見演奏とは子ども時分の私にとっては(例えばピアノのレッスンにおいてのそれは)スリルであった。この映画のフレディ(パク・ジミン)にとって冒頭のそれが旅先の韓国人を使っての自分にアドバンテージがあるお楽しみだったのが、映画の終わり、形にしてみればIch ruf zu dir, Herr Jesu Christ(われ汝に呼ばれる、主イエス・キリストよ)だったのは、これが、既に在ってしまうもの(それは他者とも言える)の中でいかに自分を生きるかという物語であることを示しているように私には思われた。

「典型的な韓国人の顔」のフレディがゲストハウスの受付をしているテナ(グカ・ハン)と英語で会話を交わすのに始まるこの映画では、最初から最後まで複数の言葉が交錯する。母がフランス語教師だというテナのフランス語とソウルに住んでいる叔母(キム・ソニョン)の英語を介してフレディは人々とコミュニケーションを取る。そこには訳す者の気遣いも滲むが、彼女の様子からは言葉を駆使しているというより足場がない感じを受ける。第一言語のフランス語にしたところでようやく(養)母に連絡を取ってのやりとりで「何でそんな言い方するの」と悲しそうに言われる。ダンスはそうしたしがらみから離れられる表現である。

テナによれば「韓国人の男性は皆そう」だそうなので「典型的な韓国人男性」…家父長制に基づく勝手を涙で押し付ける酒飲み…だった父親(オ・グァンロク)と7年ぶりに会う場面では、四人の中で、韓国を訪れたフランス人のボーイフレンドではなく父の方が少数派のようになるが、フレディは覚えた韓国語で気を遣う。でもやはり、「バラード3」を聞かせタクシーを呼び自分達を押し込む父が娘には「分からない」(あれは前回彼女がタクシーで去ったのも踏まえているんだろうね、おそらく)。父親を始め韓国側の親族がぎりぎりコメディふうに、具体的に描かれているのに対し、母親はずいぶん抽象的な、「足場」の象徴として描かれている。

フレディの「ミサイルを売るのは平和のため、韓国を北朝鮮から守るため」には『バービー』と『オッペンハイマー』をかけ合わせてのミーム『バーベンハイマー』絡みで最近も目にした『なぜ原爆が悪ではないのか』の内容を思い出したものだけど、加えて韓国は戦争中であり代々の漁師に始まりエアコン修理の仕事をしているという父親も兵役に行ったのだと思うわけだけど、本意か否かという問題ではなく、このセリフは彼女の生き方の比喩なんだろうか?そうだとしたら好きになれない要素だなと、「あんたなんか私の人生から一瞬で消せる」の翌朝、階段に座ってソウルの町をゆく人々を(彼女が)捉える映像に思った。

フレディが「フランス人」だと聞いての韓国人女性の「パリバゲット!」(初めてソウルに行った時ホテルの一階にこのパン屋があった、ホテルから出ても至る所にあった)。映画やドラマで見慣れた「ソファがあるのに座らない」(座るのは初めて会ったフレディと父、叔母。日本でもそうだけど韓国のこれには少し違うニュアンスを感じる)。二人同時に父に呼ばれ同じことをする妹たちは「典型的なアジア人少女」の描写にも見えた。