658km、陽子の旅


ラックの上に置かれた小さなテレビの中の、神宮外苑のいちょう並木の紅葉を見に観光客が外国からも訪れているというニュースは、仕事も買い物も家から出ずに済ませている陽子(菊地凛子)との対比、そんな彼女が旅に出ることになる予兆なんだろう(ちなみに映画の作り手は神宮外苑の再開発…「いちょう並木」は残す計画だそうだけど…につきどう考えているんだろう?映画ってそういうものだけど、何気なく出てきた物事に意味が付与される)。彼女は独り言と最後に見たままの姿の父親(オダギリジョー)への言葉は流暢だが他人とは話せない。

冒頭から端々に感じていたことに、陽子は自分が悪い、これではいけないと自責の念を抱いている。今なんて生きているだけで偉いんだから、「私なんか」と言わせる映画は私は好きになれない。また従兄(竹原ピストル)の車に案外あっさり乗るところからしてこれも冒頭から分かることだけど、怒鳴ったり殴ったり(?幻の彼は娘に手を上げる)していたらしき父親を慕い続け「手を握りたい」と願っているのも少し気味が悪い。公開中の『インスペクション ここで生きる』のように自分を受け入れてくれない肉親を愛し続ける物語を最近またよく見る、今必要なんだろうとも思うけど、父親に「オダギリジョー」以外の要素が無いものだから唐突に感じられた。

陽子は道中を共にした女達にもらったマフラーやスパッツを身に付け、ノートへの文字(と付け足す「りんご」)や「最近のは美味しい」水も倣うことで力を得、父との別れを前にしてなりふり構わず他人に物を頼めるようになる。当初は隣に座らせた彼女に心情を吐露したり(「結婚は?子どもは?」と聞く無礼は自分がその話をしたいからなのだ)トイレについてもらったりと他者が彼女を必要としてきたが、ここへ来て彼女の方が自らを滔々と語る。一方で彼女を暴行する男の「自分で決めたんだよね」「個人の自由だからね」、老夫婦の夫の方の「知らない人の車に乗るなんて」はいわば表裏一体で、やはり言うのは男なんだなと思う。しかし男にあんなことをされた後で海辺で何だかよく分からないことになって蘇るとか、ないから。女がああいう目に遭った後どうするか、あるいはどうする様を描くべきか、分からなかったんだなと受け取った。