私の少女



地方の港町の派出所に所長として赴任したヨンナム(ペ・ドゥナ)と、周囲の皆に暴力を振るわれている少女ドヒ(キム・セロン)の物語。とてもよかった、素晴らしかった。


(以下「ネタばれ」あり)


一昨年の「東ベルリンから来た女」昨年の「ショート・ターム」に続く、「女が少女を自転車の後ろに乗せて走る」映画。夜中に後から着いてくるドヒをヨンナムが呼ぶと、少女は磁石が吸いつけられるように走り寄り、ロックするように腰に腕を回す。
この映画が面白いのは、自転車の後ろに乗せるだけじゃ助けられない場合もある、その時にはどうするか、ということを描いているところ。虐待されている子を家に置き世話をし服を買ってやるなどの行為は孤独な二人が支え合っているふうにも映り、ヨンナムが何かを背負っているようには感じられないが、ドヒが(自転車だけで移動できる)「村」的な世界から出る必要があると分かった時、彼女は覚悟を決める。雨の中を車で一人やってきた女は、やはり雨の中、眠る少女を隣に乗せて発つ。


性的虐待の疑いで緊急逮捕されたヨンナムは、「あんたが同性愛者だから問題になるんだ、それが原因でこっちに飛ばされてきたんだろう?」と詰め寄られ「答える義務は無い」とはっきり言う。「私は彼女を暴力から引き離して傍に置いただけ」だと。
まさにその言葉通りであった。初めて見掛けた夜に小道を追うも消えているという「神秘的」な状況、お風呂に入る際に滑り落とされる衣服、背中の傷に触れようとすると振り向く顔など、二人の間の出来事そのものもそれらの撮り方も、ヨンナムがドヒに何らかの魅力を感じていることを示している。しかし彼女がしたことは「暴力から引き離して傍に置いただけ」。「社会」はそうと認めないが、性指向が人間のやることなすこと全てに采配を振るうわけではない。


終盤ソウルに戻ることになったヨンナムは、送ってもらう車中で若い警官が「ドヒにいい印象はないんです、子どもらしくなく、小さな怪物みたいで」と言うのを聞き、彼女を置いては去れないと引き返す。所長としてやってきたヨンナムのことを女だからと馬鹿にせず笑顔で接する警察官らは、この映画におけるちょっとした「支え」のようにも見えたけど、一番大事なことを大事にしない人間はやっぱりダメなのだと思う。敵が全て「敵」然としているわけじゃないのだ。
また彼の言葉に、私だって映画を見ながらドヒのことを「怪物」扱いした瞬間があったのではないかと心を撃たれた。前半、山岸凉子の「昔」の(子どもを「怪物」としても描いている)作品の数々が心をよぎったから。でもそうじゃないと思い直すと、映画もそうじゃないと言う。それが嬉しかった。「今」はもう、そういうフィクションは要らない。


大事なのはご飯を食べること、というのがはっきり描かれていたのもよかった。ペットボトルに詰め替えた酒浸りのヨンナムの暮らしが、ドヒが来たことで変わる。初めて家に入れた際には出前?のジャージャー麺、朝は温めたおじや?の缶詰、やがて料理をするようになる。一人になったドヒを迎えに行っての第一声は「ご飯は食べた?」、その後のおかずがたくさん並んだ食卓の美味しそうなこと。
子どもながら子どものふりをもするようになったドヒ(聞き取りの際に「牛乳」を飲んでみせるあの仕草!)にヨンナムが別れを告げに行くと、奥から出てきた少女は庇に頭がつかえそうで(低い庇なのだけど)一瞬「大人」になったように見える。しかしヨンナムはそんな彼女に、ご飯を食べて学校へ行くよう言う。


「白いワンピース」は、自分を自分で管理している女が着ていれば大人の証、まだ管理できていない女が着ていれば子どもの証、だと思った。なんだか当たり前、みたいな言い方だけど(笑)