冒頭、地元ノリッジでサラヤ(後のリングネーム・ペイジ/フローレンス・ピュー)が戦う間、オープニングタイトルが出るまで、モトリーの「Wildside」がほぼ丸々流れるが、ヴィンスのボーカルは無し。続くメイデンの「Bring Your Daughter to the Slaughter」も車中で皆が一緒に歌うためブルース・ディッキンソンの声は殆ど聞こえない。この映画では既成曲の男声が極力目立たないよう処理されている(クリスマスソングではそのまま聞こえるし、サラヤの旅立ちの場面の曲(何だか分からず)や最後のエリー・ゴールディングの曲などは女声が普通に流れる)。プロレスに親和性のある音楽を男の声でやると女の映画にならないからかなと考えた。
娘をアメリカへ送り出した母(レナ・ヘディ)の「WWEが欲しがる女はモデルやチア」にそういうものなのかと見ていると、その後の練習の様子に、出自がどうであろうがこんなすごいことをやっているんだから皆同じだろうと思わせられる(ただしそれは「傍から見て」であって、同じに見えても家族であっても人間は皆違うのだということもこの映画には描かれている)。同時に、例えば「女優」に対しても思うことだけれども、素晴らしい女優は数多いれど、スタートに立つ機会は(「美男」のそれに比べて)「美女」である割合が高いもんなあとも考える。だから先に書いたような何らかの操作が必要なのだと思う。
WWEロウでの初戦の後、「ここが私の家」と言いリングを下り仲間と喜び合い家族に語りかけるペイジと、故郷で赤子を抱きながらテレビを見る兄ザック(ジャック・ロウデン)、両者があまりに繋がっているのに…同じ場所として撮られているのにびっくりした。これは私達の居場所は先駆者(とその背後にいる人々)によって広がるという話なのだと受け止めた。
ロック様の登場一度目の「声色は違っても同じおれだ」には、冒頭サラヤが地元で試合のチラシを配っている時、「女らしい」少女達に「それ試合の服?」と言われ「これ私服だよ(これ私だよ)」と返していたのを思い出した。もとより彼女は自分のままでリングに上がっていたんだって。二度目の「うちもプロレス一家だったから」には、ロック様が「ワイルド・スピード」新作で自身のルーツを大々的に出してきたことを思い出した。ああそうか、そうして皆、世界を広げてるんだって。