百円の恋



一子(安藤サクラ)は、実家の商売を手伝わず居候する32歳。離婚して戻ってきた妹との折り合いが着かず、百円コンビニで働きながら一人暮らしするはめに。やがて帰り道のジムで見掛ける狩野(新井浩文)の姿に惹かれ、ボクシングを始める。


日本映画を見ない私にとっては、これまであまり触れたことのないタイプの映画で、面白かった。だからなのか?感想を言おうとすると、殆ど全てのアタマに「悪い意味じゃなく」というのが着いてしまう。
まず悪い意味じゃなく、見ていて全然、ボクシングをやりたくならない。リングに上がる際の、松脂で足を拭いたりうがいをしたりというワンカットの「リアル」感、その後の試合の熱には隙が無く、楽しそうなんて感情を抱かせない。
加えて、一子の「やりたいこと」のあまりにあまりな明白さ。彼女は「なぜボクシングをやりたいと思ったの」という狩野の問いへの答え「殴り合ったり、肩を抱き合ったりしたい」を、初めてのリングにおいて過剰な程に実行する。あれは私じゃなく彼女の求めているもの。だから見ている私はボクシングをやりたいと思わない。


それから、悪い意味じゃなく、画面がとてもうるさい。文字だらけ。80年代風?のオープニングクレジットからして見たことのないタイプのうるささだし、弁当屋、百円コンビニ、ボクシングのジムやリングだって静かにはしていない。しかしエンドクレジットで映る無人の「舞台」の数々は、人が居ないとそううるさく感じないから不思議なものだ。
冒頭家の前で転ぶ(この時は満足に歩けもしない!)一子のお尻に、おそらく「パジャマのズボン」のタグが透けて見える。そういうのって映画であまり見ないから、「普通」は透けそうな場合はタグを切ってるのだろうか。これも悪くないうるささの一つ。
全くもって私の勝手な思い込みだけど、こうした「うるさ」さというのは、例えば一子が倒れた時の窓辺のグローブ、あれは狩野が置いたものに違いないわけだけど、まああの部屋は別に「うるさ」くないけど、それにしても、そういうのを目立たせるのに照れがあるから、というか、そういう感じを受けた。


一子が唯一「ボクシング」の外で拳をふるうのが、作中一人だけ「家族」と「社員」の身分を持つ、本社から派遣されてきた人間(名前が分からず/沖田裕樹)。「決まり」を頑なに守るその言動は、昨今では「正しい」とされることもある。映画はそれを「悪役」とする。「昔はよかった」、というより、今の世の中に対する反抗心のようなものを感じた。そもそも一子の「人と殴り合いたい」という欲望や、「昔ながら」の映画の演出でもあるけど、わざとらしいほど皆が煙草を吸いまくることからも、そういう精神が感じ取れる。
(本社の彼の姿には、落語に出てくる、「悪役」だけども昨今では「彼の方が正しいのでは」とも言われる(実際そういう意見を聞いたことがある)キャラクター、例えば「大工調べ」の大家さん(家賃を全額払わないという理由で与太に道具箱を返さない)なんかを思い出した・笑)
その対極にあるのが、「かつてレジからお金を盗んでクビになり、今は廃棄を盗みにくる」おばさん(根岸季衣)。彼女と一子の暗闇の中の「ばいなら」で、作中唯一あたたかい音楽が流れる。「正しい」経済活動に与しない、何にも守られていない、ただそれなりに頑張る者が肯定される。


冒頭の実家での朝の一幕、「誰のおかげで歯医者に行けてると思ってるの」「だから行かないって言ってるじゃん」「そういう意味じゃなくて」のまさに「そういう意味じゃない」感がすごい(それをセリフで説明してしまうとは・笑)
その後の妹の「あんたは女を捨ててるんじゃない、捨てられないだけ」というセリフの意味、そこで「女」という言葉が出てくる意味は、映画を最後まで見てもよく分からなかった。単に、女の場合は「女を捨てる」ことを「人生を捨てる」ことと同意にされるからだろうか。ともあれ冒頭コンビニに行き来する際の一子の自転車の漕ぎ方は、姿勢は悪くとも妙に力が入っており、その漕ぎ心地の悪そうな感じが、彼女の人生に通じているような気がした。
ところで、狩野みたいな人は私を誘ったりしないだろうけど、ぶっきらぼうにも程がある彼と一子の「デート」の場面は、こういう人と楽しく過ごすにはどうしたらいいかな、なんて考えながら見てしまった。でも私なら内心キレて黙って逃げて終わりだな(笑)