ポーランドへ行った子どもたち


映画はポーランドのとある場所でとある歌を歌い踊る女性をもう一人の女性がiPhoneで撮影しているの(を誰かが撮影した映像)に始まる。これはまず二人の女性の旅の記録のドキュメンタリーであり、一人は被写体であり脱北者であり家族を失った者、一人は監督であり(映像には出ずっぱりだが)元よりの韓国人であり「本当の母親になった」者である。
作中の旅は「ポーランドへ行った子どもたち(原題まま)」とその子らに寄り添った現地の教師らとがこの二人に重ねられるのに終わる。最後の最後が教師たちの写真であることからしても、国の意思がどうであれ末端には人と人との接触があるというのがこの映画のメッセージなのだろう。

チュ・サンミ監督は全ての出発点は産後うつの時期に北朝鮮のホームレスの子の映像に母親はどこにいるのかと涙があふれ、自身が母になったと強く意識したことだと言う。その後ポーランドのプワコビツェ村に残った朝鮮戦争の孤児を題材に書かれたヨランタ・クリソヴァタの著作に出会い、彼らを描く劇映画の制作に取り掛かる。
子どもたちは休戦後に労働力として北へ送り返されるが、ポーランドに帰るために脱北し道中で命を落とす者もいたという。実際の脱北者が集まったオーディションの場面をなるほどと見ていると、監督は歌いながら涙を流す役者になぜ泣くのかと問うて専門家に「傷を開かないように」と注意される。しかしその中の一人、イ・ソンとの取材旅行においてもまだ「心を開いてくれない」と考え(後付けのナレーションで語られ)「役者にとって傷はどんなふうに役立つと思う?」と訊ねるなどする。

ドキュメンタリー「マダム・ベー ある脱北ブローカーの告白」(2017年ユン・ジェホ監督、フランス・韓国制作)でも中国を経由して脱北したマダム・ベーが南に到着した際にそれに近いことが(映像でもって)訴えられていたけれど、本作ではチュ・サンミ監督が「韓国政府は脱北者の傷を政治利用してきた」「芸術だって同じなのでは」との考えに至る。私にはここが映画の白眉に思われた。
イ・ソンは監督に打ち明ける、「北では南の暮らしは最悪だと教えられていたので、じゃがいもを二つ持って南の子にあげたいと思っていたけれど、来てみたら韓国人はいもじゃなくパンを両手に持っていて、残ったら人にあげずに捨てていた」「同じ民族でも違う民族みたい、統一はされない方がいいと思う、自分の家に泥棒として侵入したように感じるかも」。統一されたら北に帰りたいと話す若者もいる。こうした声が映画に収められているのは貴重だ。

1950年代、金日成は「戦争を続けるため」と共産圏の国々に子どもを預け共産思想教育を受けさせた。そんな中(ここでさらりと語られる「二年間ロシアで放置されていた」)1500人近い子どもたちがプワコビツェ村へ移送された。取材中のヨランタ・クリソヴァタとのやりとりで、送られたのは(すなわち送り返されたのも)北の子どもばかりではないことが分かり彼女らも私も衝撃を受ける。
教師たちによると、到着した子どもたちは多くの寄生虫としらみをもち、森の植物を食べ物だと喜んで採っていたという。朝鮮語ポーランド語を繋ぐ辞書はなかったが皆ポーランド語を大変早く覚えたという。教師の方も彼らの言葉をいまだ覚えており、それについて話す映像がよかった(엄마, 빨리・식사, 아이고…お母さん、早く・食事、感嘆詞というのが子どもの暮らしを思わせる/これはポーランド制作のドキュメンタリーからの引用)。作り手の存在が見えるのが特に今のドキュメンタリーの面白さだとは思うけど、本作では二人の旅のあれこれよりも、一分でも長く教師の話に触れたかったというのが正直なところだ。