ノーマ・レイ


「ステーキを平らげて3回もセックスしたのに何が不満なんだ」とモーテルで言われたノーマ・レイサリー・フィールド)いわく「気持ちがしっくりこない」。嫌だ、変だと思うがそれが何なのか言葉にできない。似たような感覚は10代の頃に覚えがある、女友達と男にこんなことをされたあんなことをされたと言い合うもフェミニズムを知らなかった頃のこと。おそらく彼女の内では既婚の男と未婚の自分の関係と、職場の経営陣と自分達の関係とが重なっている。山程のトッピングを施せば食べられるが実際は何なのか分からないホットドッグを日々腹に入れている。それを吐き出して捨てるのは「贅沢」なのだろうか。

視察にやってきたルーベン・ワショフスキー(ロン・リーブマン)が勤務中の工員達に名乗ったり質問があればモーテルの部屋へと話し掛けるのを見ているノーマの苦しいような切ないような表情に、冒頭からの絶え間ない轟音は単に悪辣な環境というだけでなく弱者同士が声を掛け合うこと、助け合うこと、すなわち連帯、加えて外部からの情報の入手を妨げるものの象徴なのだと分かる。ノーマが「UNION」を掲げる時ようやくそれが打ち破られる。一人ずつが音を消すことでそれが成されるというのが面白い。

「あなたと会う時いつも男と何かある」とルーベンに言うノーマがソニーボー・ブリッジス)と飲む際に彼を呼ぶのには、見定めてほしいとでもいうような欲求を感じた。帰りの車のハンドルを握るのはルーベンである。結婚後「黒人なんか家に入れたら問題が起こる」と言ってノーマに「問題は白人の方にある」と返されるソニーは、物語の最後に「女闘士なんてまっぴらだ、これからどうすればいい」と嘆いてルーベンに「彼女は立ち上がり解放された」と教えられる。そうだ、自分次第なのだと理解した彼は「何があってもそばにいる」と決めそう告げる。「幸福とは男と女が愛し合うこと」と即座に答える人間のよりよい生き方がここにあると思った。

ニューヨークでのルーベンの「オペラを見て中華を食べてベッドに入る」といういつもの暮らし、すなわち「世界中」と接する世界に「ホームシック」になるというのは考えたら面白いが、多くの人にとっての東京だってそうだろう。露骨なユダヤ人差別の残る田舎町に彼が居づらいのは当然だが、それでも今はと男達の中に入り木片と一緒に手も削ってしまったり牛のうんこの上にけつまずいたりというくだりが作中唯一の、という程じゃないけどちょっとした笑いどころになっているのが心に残った。まるで何かと引き換えのようで。

「君は美しい」「18の時はともかく今は…」「ぼくには今もきれいだ」なんてのも古いけど(「今」の映画なら舞台が当時でもそのようなセリフは省かれるだろう)、「今」の感覚からして最も違和感を覚えたのは、紡績工員労働組合の本部からやってきた男達がノーマを外せと言う、その理由…「色んな男と寝て子どもまでいる、そして君(ルーベン)のベッドに寝ている」(という噂が立っている)に対し全くもって馬鹿げていると二人がはっきり口にしないところ。「警官とポルノに出ていた」のが本当だとて何なのか。今もあのような言いがかりは横行している。抑圧や嫌がらせの精神は変わらず対する側のいわば心構えのようなものばかりが何とか前進しているということを思うと残念な気持ちになる。しょげはしない、対抗してこう!と奮うわけだけども。