バビロン


1980年のサウスロンドン、ジャマイカ系移民二世の青年達。レゲエの知識が皆無なので見ていて分からないことだらけだったけど、レゲエ仲間といっても相当色んな奴がいる、色んなことをしている奴がいるということを描いた後でのガレージでの、一枚のレコードで皆が一体となる時間、その後に空気が変わる瞬間、その中の一人ブルー(ブリンズリー・フォード)がナイヤビンギのリズムに高揚したアイデンティティを破壊され底の底まで沈み込む時、全てがずっしり胸にきた。

集まって騒いでいる自分達を「くろんぼ」と罵った近所の白人を殴りに行こうとするビーフィー(トレヴァー・レアード)を、ブルーは「喧嘩したら奴らには応援が来る」と必死で止める。これこそマジョリティが無知ででかい顔をしていられる理由だ(今の私はどっちの側でもある)。全体が個人に味方するから。だから仲間は白人を騙して路地裏へ連れて行き、ぼこって奪って応援が来る前に放置して逃げ憂さを晴らす。警察の車に追われ袋叩きにされたばかりのブルーはそれを胸を痛めて見る。

ガレージの中は個人の集まりだが扉の外には全体があり、騒音について文句を言われる場面でも始めは皆笑っているが白人女性が踏み込んでくると社会全体の空気が流れ込み変化が現れる。だからめちゃくちゃにされたガレージで、ビーフィーはロニーに扉を閉めるよう言うのだ。作中最も印象的なのがこの、ブルーの友人にして白人のロニーの「『おれが』やったのか」。確かにそうだがその言葉は意味を成さないどころか害である。悪循環の一番悪いところがここに押し寄せている。

最近では『ドライビング・バニー』がロードムービーを謳いながら立て篭もりの映画だったものだけど、ほかにもあるしこの映画もそう、どこかに立て篭もるはめになる、というか追いやられる、追い詰められる人々の話だと言える。最後にはガレージじゃない、サウンドシステムバトルの会場に警察が非常口を打ち壊してなだれ込んでくる。

ブルーがマイクを取って歌う歌の内容に、彼の弟には学校に行きたくない理由があったのかもしれないとふと、やっと思う(理由がなきゃいけないわけじゃないけども)。冒頭路上で兄が弟を抑え込んでいるのを白人女性が止めに入る場面には笑いよりもそのねじれた構造に困惑の息が出てしまうが、弟も長じれば兄のようになるのだろうかと見ていると、息子が「賢いサルは要らない」とクビにされた整備工場を「いい職場だった」と言う一世の父親が母親に手をあげているのを息子は反面教師にしているようで、恋人の女性が土曜の夜に留守にしていたのを「殴ってやりたい」とエレベーターの壁に拳をぶち当てて済ませるのだった(それも全然暴力だけど、まあ40年前だから)。ここにもまた、全体の中で個人が惑う様が見えるようだった。