神に誓って



イスラーム映画祭にて観賞、2007年のパキスタン作。パキスタンで音楽活動に勤しむ兄弟、ロンドンで白人男性と付き合う従姉、それぞれが悲劇に巻き込まれていく様を描く。


メリーの父親と同棲している白人女性が「私がもっと強かったら」と口にするが、どこを切っても「イスラム教」絡みの内容なのに、とても「普遍的」な、人間とは弱いものであり、いつだってこういうことは起こり得るのだという物語に思われた。足を拭かせている学者の先生だって、メリーに救いを求められなければ「安全な部屋の中でお祈りして本を読むだけ、弱者を救う暇は無い」ままだったろう。
私の弱さは、この映画を見ている時、ある場面において、状況によっては「女」から「男」に対してもこんなゲスいことができるのだ、と少しほっとしてしまった所に現れた。それは裁判の終盤、「私達」が「勝った」と見るやその場の暴力に目もくれず衣を翻して出て行く女逹の姿にも通じる。


パキスタンで強制結婚させられたメリーが、ロンドンに比べたらあまりに「何も無い」場所をふらつく様子にああ嫌だと思っていると、場面替わって、兄が音楽学校の教室で「水瓶がない〜」とか何とか弾き語りをし、盛り上がり皆が加わる。この歌の根っこはああいう地にあるのかもしれないと思う。更に場面が替わり、メリーは女達との触れ合いに心を取り戻す。そんなふうに全てが入り交じっている。
それは「恋」という意外なキーワードにも表れている。弟を洗脳する「先生」いわく「教義に反論できなかったらその度に改宗するのか、理性を持ってはダメだ」「宗教とは恋のようなものだ」。自分は白人女性と(「懲りずに」)一緒になるが娘には許さない父親は、「白人女性」と付き合う理由を問われ「恋だ」と答える(確かに「男には許されるが女には許されない」というだけでは無いように思われる)そして兄と白人女性の間に生まれるのも「恋」である。同じ言葉で表される概念により、人はどんなふうにも転び得る。


映画「わたしはマララ」を見た際、馬鹿みたいだけど、あんなにも「神」を信じていながらあんなことが出来るというのが、頭では分かってもぴんとこなかったものだけど(それは無知ゆえであり、私の知識は本作で兄と愛し合う女性の登場時と大差ないのだと思う)裁判における学者の先生の問答により、その謎が少し解けた。大切なのは、宗教についての深い知識と人間を愛する気持ちなのだと。そして最後に必要なのは、「実行する」ことなのだと。