皇帝と公爵




「自由・平等・博愛というスローガンに引かれてナポレオン軍に入ったが
 殺したのは自分と同じ貧乏人ばかり
 スローガンはナポレオンの兄弟の間でのことだったのさ」


雨が止んだ後の泥に倒れ込む男が一人、カメラが引くとそこら中が同様の兵士だらけ。そこへ現地の住民達が、使えるものを取りにわらわらと現れる。
本作は仏軍兵が「五千人死んだ」という「ブサコの戦い」の後の死体の画から始まるが、全編通じて戦闘シーンは無い。日本版のポスターにでかでかと出ているのは、英葡連合軍のウェリントン将軍(ジョン・マルコビッチ)と、仏軍のマッセナ元帥(メルヴィル・プポー)に仕えるマルボ男爵(マチュー・アマルリック)だが、二人は殆ど登場しない。
そもそも血も見られない。作中最もはっきり「殺し合い」が描かれるのは、共に行動していた脱走兵達の「仲間割れ」の場面だけど、手元は写らず、まるで殺陣の練習みたいな描写がなされる。
本作に描かれているのは、決して「えらいさん」では無い兵士達と、自分達の土地に踏み込まれた「一般市民」。彼らの行軍、あるいは行列の描写が殆どの時間を占める。こうした様子を映画で長々見ることってあまり無いから面白い。市民の中には移動しながら商売を営んでいる者、「書斎」を持ち運んでいる者などがいる。
足を怪我した、あるいは不自由な者は、市民なら木の杖に、兵士なら銃身にすがり、時には仲間にかつがれて移動する。「雨」の場面は冒頭以外に無かったけど、降ればもっと大変だろう。「足の無い」ポルトガル人の兵士は、病院を襲った仏軍におそらくすぐさま殺される(この時、彼を置いて逃げざるを得ない部下の中尉が、求められた握手を拒むのがいい)。


英葡連合軍を率いるウェリントン将軍が登場するのは、画家に自分の肖像画を描かせている場面。あまりにゆっくり移動したカメラが、その絵を捉える。確認したウェリントンは「死体ではなく英雄を描け」と命じる。しかし画家が本当に描きたいのは「死体」であることが後に分かる。そこにも表れているように、戦争に在るのは「英雄」ではなく「死体」と「生き残った者」である、というのが本作の姿勢だ。
一方の仏軍は、彼らの暴挙を憎む市民が一斉に避難したため略奪が出来ずに飢え、態勢を立て直すためコインブラへ退却。マッセナ元帥は、現地に留まっている裕福なスイス人商人の屋敷で主人(ミシェル・ピコリ)、姉娘(カトリーヌ・ドヌーヴ)、妹娘(イザベル・ユペール)のもてなしを受ける。カメラが三人を順に捉え、食卓の彼らが一堂に、いかにも均等に映される。マッセナ元帥が愛人(キアラ・マストロヤンニ!)を男装させてまで連れて来たことについて、ユペールが「フランス人だもの」と言うのが可笑しい…と思っていたら、ドヌーヴは自分の娘が仏軍の流れ弾に当たって死んだことを告げ、妹の車椅子を引いて退場する(彼らが留まっている理由の一つには、彼女の身体的事情もあるのだろうか?)。プポーは下品に食べるだけ食べて消える。最後にピコリだけが残る。この一幕はおまけの「パート」という感じ。


時たま、奇妙な感じにおそわれる。アイルランド人の伍長である夫の死を知った新妻がテントの中で膝を抱える陰に、それを伝えた軍曹のテントに忍んで来た娼婦が布団にもぐり込む陰が重なる。仏軍の襲撃から逃げ出したポルトガル人の中尉がとある屋敷に隠れると、残された果物の向こうの室内に、かつての幻が見える。こうした「奇妙」さが味わえるのは前半だけなので、完全な推測だけど、本作はラウル・ルイスの遺したプロジェクトだそうだから、彼が撮った部分にのみ、そういう空気があるのかなと思った。
誰かが誰かに自らの体験を語る際、「どういうふうに語る」かではなく、その体験そのものが映像として提示されるのも心に残った。伍長の死を伝える軍曹は、まさに寸前まで生きていた彼が撃たれた様を語り、「神父が指揮する追剥団」の中の女性は、仏軍の兵士達に二度暴行された様を語る。これらの映像は確かに衝撃的。この映画は人となりよりもそちらを優先しているわけだ。
原題は「Linhas de Wellington」=「ウェリントンの線」、将軍が仏軍を誘い込む要塞線のこと。よって時間が進むにつれ、登場人物達は一つところに集まってくる。マルコビッチとアマルリックは、望遠鏡越しに覗き合う場面で作中最も「接近」する。群集劇で徐々に接点が出来るというの、やりすぎると白けてしまうものだけど、その具合が渋くていい。冒頭から画面に「脇役」として映っていた人物が、中央に登場する時がやってくるのも面白い。不満を述べるとしたら、本作はラウル・ルイスの妻がまとめたそうだけど、女性達の顛末が私には「さわやか」すぎてあまり好みじゃないかな(笑)