ゴー・フォー・シスターズ/子供たちをよろしく

特集上映「サム・フリークス Vol.11」にて二作を観賞。


▼「ゴー・フォー・シスターズ」(2013/アメリカ/ジョン・セイルズ監督)は保護観察官の女性がかつての女友達と共に行方不明になった息子を探す物語。
全てがジョン・セイルズらしい映画だったけれど、私としては、「ターミネーター」なるニックネームの元刑事(エドワード・ジェームズ・オルモス)の「おれは親友の悪事を見逃してた」が妙に胸にきた。「もし告発してたら」に「過去は変えられない」と返す。決してほめられたことばかりじゃない「人間らしさ」と同時に、自分がそうしていた、又はそうしているという事実に対する認識がちゃんとある。

「友達を助けるのは当たり前でしょ」とのオープニング。保護観察官バーニス(リサゲイ・ハミルトン)のところへやって来るのは、薬物中毒だったフォンテーヌ(ヨランダ・ロス)しかり、仮釈放中の身でしてはいけないことか否かを考えず「友達」に関わってしまう人々ばかり。バーニスが自分の仕事について説明する「公の利益と更生とのバランスが大事」とはどういうことだろう、それらは両立し得ないのだろうかと引っ掛かりながら見始める。後にターミネーターは彼女に「悪事を見逃すか否は君次第」だと言う。

序盤にフォンテーヌが、運び屋として働かないかと持ちかけてくる男の「友達だろ」に「友達じゃない」と返すことから、この話では人は友達を自身の意思で決めていることが分かる。女二人が行動を共にするのは、遠い昔に互いを認め合っていたからだとも分かってくる。音信不通の間に生まれて育って軍人としてアフガニスタンに行って帰って来たバーニスの息子は、二人が会わなかった時間そのもののようでもある。もちろん息子は主体として生きている人間なわけだけども、その彼が傷ついてもしていたこと、その結末、これはあそこに向かう物語だと思った。


▼「子供たちをよろしく」(1984アメリカ/マーティン・ベル監督)はシアトルでその日暮らしをするストリートチルドレンを捉えたドキュメンタリー。
この企画上映では、次の映画へ、次の映画へと常に何かが被って繋がっているんだけども、今更ながら、要素が繋がっているのは精神が繋がっているからなのかもとふと気付いた。例えば無賃乗車や「廃墟だから住める」など。

14歳のタイニーと友人のやりとりに、そりゃ売春もするよと思う。お金になるんだもの(ウエイトレスである母親にとっては高価な化粧品をこともなげにねだるところにその金銭感覚が表れている)。だからこそ私達大人は子どもを買う奴らがいなくなるよう何とかしなきゃならない。赤い車の男性が彼女を乗せて去る画、あれが仮に「本物」でなかったとしてもあんなに衝撃的な映像ってない。
「ホモを脅迫して金を取る」のだってそう、「ホモ」が脅迫たり得ない社会を作らなきゃならない。そうなったら彼らはどうするのかと言う人がいるかもしれないけれど、そうなった時には世界の別の何かも変わるはずで、それについて私には分からないとしか言えない。

「少女は夜明けに夢をみる」(2016/メヘルダード・オスコウイ監督)ではカメラの前で被写体である少女達が互いにインタビューしてみせていたものだけど、この映画の、とりわけ序盤に多く挿入されている子ども同士でなされる相手への問いの数々は、質問者と回答者を演じているように…すなわち作り手の依頼によるものに見え、それが監督から子ども達への働きかけの表れであるように感じられた。その会話による変化の可能性があるから。
お正月に「半島」を見た時、オープニングの一幕について「外側に圧倒的な強者がいることを示唆している」と感想を書いたものだけど、この映画にはそんな描写など無くずっと地べたが映っているのみなのにそれが分かる、いや、実はそこに構造自体が映っているんだなとも考えた。