あのこは貴族


原作未読。

東京タワーが欠けてはいるがはっきりと見えるベランダで並んでアイスを齧る女二人に、「私をくいとめて」のローマでやはり横並びで花火を見る女二人が重なった。その前の、美紀(水原希子)の「狭い部屋って落ち着くよね」に対する華子(門脇麦)の「全て美紀さんのものだから」には作中唯一涙がこぼれてしまった。これはそこに向かう話だと思った。「分断」しようとする奴らに対抗するのにも必要だもの。

華子の一章、美紀の二章と辛くて辛くて、それは「貴族」であろうとなかろうと共通する根があるからだろうと思っていたら、三章の「邂逅」で赤い服の逸子(石橋静河/私もこの映画を見た日、たまたま真っ赤な服を着ていた)が口にするあまりに直接的な言葉でやはりそうだと分かる。その根は「分断」であり、それをする側の象徴が(古くからの「妻と愛人」よろしく)「女の使い分け」をする幸一郎(高良健吾)である。

幸一郎の「結婚してくれただけで十分」はうちらが言われるそれとは違う。彼とて自分と結婚するのがどういうことか分かっている。でも彼は女を使い分けたり出馬なんて大事なことを黙っていたりする狡い奴だし、だいたい華子の母親いわくの「ああ言う方達のために国が回ってる」存在に私達は今、心を沿わせて終わるわけにはいかないはずだ。

終盤の「あの映画見た?」「いや…」「絶対見てないと思った!」、ここへきて初めて華子と幸一郎が「友達」に近づく(からこその、あの展開)。美紀と里英(山下リオ)が東京駅の脇で入学直後のアフタヌーンティーのことを思い出す場面もこれに似ている。時を経る、長く生きるって楽しいこと(のはず)だと思った。

しかし女同士のいわゆるさばけた会話が「介護される時のために下の毛を処理しとこう」だなんて、結局そういう視点から逃れられないという描写なのかもしれないけど、やなこったと思ってしまった。終盤華子の目に映る、オリンピックに向けての建設現場の数々もどういう視座で撮られているのか分からず戸惑った。作り手は別にそんなことをしたくはないのかもしれないけど、私はもっと、何であれ遠慮しないのが好みだ。