22年目の記憶



「ヨコヅナ・マドンナ」「彼とわたしの漂流日記」が楽しかったイ・ヘジュン監督の2014年作品。「漂流日記」で初めてちゃんと認識したジャージャー麺が今回も印象的に使われていた。


リア王」リハーサル中の客席を掃除しながら舞台のセリフを諳んじる男…って北島マヤかよと思いきやそのキム・ソングンソル・ギョング)は長年芽の出ない劇団員なのであった。彼の苦悩は役をとられる、舞台にあがれない、すなわち誰にも見てもらえないことにある。彼にとって演劇は観客がいることで完成する。仲間はその認識を共有しているから、94年のあの時に「治療」になればと「俺が見たから」と言うのだ。


面白いのは1972年から1994年までの22年が全く描かれないところ。94年に飛んで突如登場する息子テシク(パク・ヘイル)のくたびれた感じの風貌に、父の苦悩よりも息子のそれの方がずっと想像し得るため胸が痛くなる。彼がネズミ講の講師をしているのは、人前で喋る職業には総じて役者の要素があるから父の血を引いているといっていい(最後の「スピーチ・珠算」然り・笑)。加えてこの場合、いい車に乗りいい所に住みそれこそ背が高く見える男を演じてもいる。どんな人間でも「演じる」ことをしているのだとも言えるが(後にキム・ソングンは違う形での「演技」もするのだし)振り返ると作中、演じることに関わっているのは男だけである。女の蚊帳のソト感は否めない。


冒頭テシクが父の仕事について友達に認めてもらえないとこぼす場面がやけに多いと思っていたら、この映画は私には、22年越しの「お父さんの職場を見てみよう!」だった。モニター越しに彼が父の仕事ぶりを初めてきちんと見る場面で涙があふれた。それにしてもあんな大根役者だったキム・ソングンになぜあんな名演技が出来たのか、あの状況下でいいように使われたあの二人と組んで才能が開花したのだとしか思えない(劇団じゃ「セリフを言ってればいい」としか言われていなかった)。南営洞での観客無き三人のシーンも切なく思い返される。