未来を乗り換えた男



まごうかたなきクリスティアン・ペッツォルトの映画。うさんくさくてなよなよしているが、芯は強くて優しくて、私の好きなタイプのロマンに溢れている。映画とは得てしてそういうものだが、問題を正面切っては描かない。でも全ては「それ」のせい。彼の映画はいつもそうだ。


映画は店に始まり店に終わる。主人公ゲオルク(フランツ・ロゴフスキ)がパリの店を後にしたところで出る「Transit」というタイトルが、ナレーションやセリフでビザの種類のそれだと示される。馬鹿みたいな言い様だけど、これは通過(乗り換え)の話である。本来時間を掛けるものでない通過に時間を掛けざるを得ない、そこが自分の目的地だと思えないまま時を過ごさなねばならない人々の話。


ゲオルクは宿の女主人に「通過ビザを見せなければ(彼が言い直すには「居座らないと証明しなければ」)泊めない」と言われる。人々は歓迎されざる地で良心と恥、保身の間を揺れながら生きる。通過ビザを待ちながら、あるいは持っていても、一人じゃない人間は動くことが出来ない(これが彼の映画のテーマである)。


私達がニュースや映画で見る今のドイツがなぜああなのか、すなわち迫害されている人は皆ここを居場所としてくださいと言うようになったのか、その心意気の原点が別の国を舞台に描かれているとも言えるが、違和感は全然覚えなかった。後に語り手が判明するナレーションが、ゲオルクが捨てざるを得なかった母語に触れるのと同時に始まりほとばしるように饒舌に続くのが効いている。


マルセイユに降り立ったゲオルクは「誰からも見向きもされないのは寂しい」と思うが、程なく二人の人間が声を掛けてくる。いずれも背中から。こちらに背を向けている人に声を掛けるのはちょっとした勇気がいるから、彼らは切羽詰まっているのかもと考えた(あるいは後にトイレに流される写真の人物と彼とは影が似ているのかもと思う)。二人は自分ではビザを取れない者である。妻と子ども。


少年の枕元に見つけたラジオを直す場面がやたら長いが、本作では職業がアイデンティティを表してもいる。意に沿わぬ仕事を条件にビザを出される指揮者の死。医者は診療し修理士は修理する。アメリカ領事にメキシコでどうするのか聞かれたゲオルクは手に職があると誇らしげに口にするが、新作はと聞かれると、亡くなった作家への敬意もあってか読んだ内容を語る。


最後に道を引き返したゲオルクがあそこに向かったのは、病院を建てるという男の意志に賭けたからだろうか。思えばマルセイユまでの道中、彼は必死に一つの命を守ろうとしていたものだ、ナレーションでそう語られた。あの小説には「冒頭の思考からして結末は当然」というような文があったけれども。