ミモザの島に消えた母



タチアナ・ド・ロネの「Boomerang」(未読)を元に制作。


オープニング、田舎道を走る車の助手席ですねたように顔を背けている少女が振り返ると、それはメラニー・ロランなのだった。彼女演じるアガットの「文学少女」らしき眼鏡、編むか留めるかしてある長い髮、ざっくりしたセーターの類、しかし見ているうち、彼女が少女のように見えるのはそうしたことが原因じゃないように思われてくる。


30年前の母親の死について、セラピーに通うほど引っ掛かっていた兄アントワーヌ(ローラン・ラフィット)はこれを機にと「真実」を追求せんとするが、当時5歳だった妹アガットは忌憚している。この物語において、彼女は何のために居るのだろうと考えていると、探偵よろしく走り回る兄に対しかつての使用人が「お母様は誰もが振り返る美人でした」と言う。その時ふと、今は臥せっている、実の母を「ママ」と呼ばないアガットは母親に似ているのだろうか?と思う。


この映画には、「子どもに対して事勿れ主義を取るのはよくない」という「テーマ」がある。アントワーヌの苦悩は、「そもそもあまり話をしない」家族の中で、いまだに「子ども扱いして黙らせようと」されている(と感じている)ことによる。しかし自分の娘に対しては「今は忙しい、またの機会に」とごまかしてしまい、娘は憤る。ここへ来て、アガットが少女然としているのは、面倒な「それ」から遠ざけられたことに慣れ、自身で「少女」に留まっているためではないかと考えた。彼女の最後の「爆発」は、兄のそれよりも激しい。


映画にまず出てくる「家族」は、冒頭ノアールムーティエ島を訪れたアントワーヌが思い出す、あの晩の様子である。「妹にどう言えば?」と父に問うても「向こうへ行ってなさい」と使用人に預けられる。「全員」が揃っているその「家族」は、子どもにとって、在るのが当たり前のものである。そこに「まやかし」が在ると知った彼が、今新しい家族を作ろうとしている。「クリスマスに『マクド』(とフランスじゃ言うんだね)に行く」ような家族である。


しかしこの物語で重要なのは、最後の葬儀の際のアントワーヌの行動である。そこには「ゆるし」がある。ただ、この事の「伏線」の描写が私には何とも唐突に思われた、原作ではどんなふうに描かれているんだろう?