ラサへの歩き方 祈りの2400km



チベットのとある村から聖地ラサ、更にカイラス山までの2400キロを「五体投地」で歩く11人を追うドキュメンタリー・ドラマ(出演者が自分自身を演じているそう)


オープニングはある一家の朝。目覚める子、火、湯、家畜、それから食事。父親を亡くした父親が、同居している叔父の願いであるラサへの巡礼を決意したことを家族に告げる。それを知った村人達が俺も私もと参加を申し出る場面が続く。その理由は「家畜の解体を仕事としているから贖罪をしたい」「家を新築する時に死人が出たから贖罪をしたい」「孫を全員置いていかれたら大変(だから連れて行ってくれ、とおばあちゃん)」等々。


この冒頭で、この映画が「ドキュメンタリーふうに作られた映画」であると分かる。村の人々の暮らしぶりと、それぞれの事情とが、彼らの日常生活(私からするとそれは殆ど「仕事」である)に会話を組み込んだ形で、手際よく、分かりやすく示される。この映画の面白いのは、それなのに、恐らく「よそ」の人には最も興味深いであろう「五体投地」は突如始まるところである(「手板」を作ったり「前掛け」を用意したりといった「前振り」はあれど)。彼等にとってそれがいかに「普通」のことなのかが伝わってくる。


生理になったらどうするのかと思いきや、それどころか出産をする女性がおり(出発前に毛皮で「おくるみ」を作っていく/「本物」の出産、「本物」の生まれたばかりの赤ちゃん)、道路が舗装される前はどうしていたのかと思いきや、砂利道や水に浸かった道もゆく。道中、お茶を振る舞われたり振る舞ったり、(鍋奉行ならぬ)「五体投地」奉行おじさんの家に泊まったり、交通事故に遭ったり、そのうち季節は春になり、皆は水浴びをし、衣替えをし、輪になって踊る。


ラサ近くの宿に到着してあれこれしていると、窓から顔を出した女性が「自分も行くよう言われているが、病弱なため無理なので、代わりに祈ってきてくれ、宿代は要らないから」と話し掛けてくる(こうした場面の数々の構図が決まっておりスタイリッシュでいい)。この巡礼で祈ることは「生きとし生ける全ての幸せ」であり、まずは他者のため、それから自分のためなのである。それって「人間的」だなあと思った。