ハドソン川の奇跡



冒頭、「悪夢」から目覚めたサリー(トム・ハンクス)がジョギングを終えて曇った鏡に映す姿に、例によってイーストウッドによる「サリーのテーマ」がかぶる。単音の時点で「イーストウッドの映画」だと分かる今回の曲は懐かしいような、過去、といっても実際の事件が起きた2009年というんじゃない、私自身の過去のような、私には過去があるのだと安心させてくれるような曲だった。
この映画のハンクスにはイーストウッドの影がある。そもそも私にとっては「ジョギングで登場する」のがイーストウッドだし(笑)他にもゴミを投げたり服を直したりする仕草がどことなくそれっぽい。


この映画にはクラシカルな法廷ものの匂いがある。物語も一見単純で、相手の誤りゆえに主人公が追い詰められる。サリー達と対峙した「NTSB」(国家運輸安全委員会)いわく「あなたが経験豊かなプロフェッショナルだということに何の疑いもありませんが、問題にするのはUSエアウェイズ1549便の件だけなのです」。この考え方は誤りではない筈だ。ただし、サリーが映画の最後の公聴会で「誠実な対応を望みます」と述べるように、そこに誠実さが無かったのだ。
殆どこじつけだけど、ここでふとスピルバーグの「ブリッジ・オブ・スパイ」(感想)でハンクス演じる弁護士が口にする「一件(one thing)」を思い出した。誠実に臨めば「one」の中に何でも幾らでも在る。ちなみに「ブリッジ・オブ・スパイ」も本作も「鏡」を効果的に使っているけれど、前者で鏡を見るのは主にハンクス以外、後者ではハンクスである。「鏡を見る者」には何らかの共通性があるように思われる。


実はこの映画を見た時に一番気になったのは、サリーが夢や幻を見る場面に彼視点の映像が無いということだ。勿論「映画」としての見せ方、あるいは「ニューヨークの人々の悪夢」を表しているとも取れるけれど、私には、サリーが、あの時の自分と今の自分は果たして同じか?という、いわば分離の危機に陥っているように思われた。彼がインタビュー中やジョギング中に自らのパイロットとしての過去を思い出したり、濡れた制服を夜になっても脱がないのは、過去の自分との繋がりを切らすまいとしているようにも見えた。
更には、テレビを付けると「必ず」流れている、あるいは巨大な町の巨大なディスプレイに映し出されている「サリー」と、「この自分」との分離がある。バーのテレビに映る「サリー」を見た客がふざけて「あっちにもサリー、こっちにもサリー」と口にする場面の恐ろしいこと。「サリー」なら全て同じだと捉えているのは、実は本人ではなく他人なのである。


飛行機ものとしても最高で、まず「事故」シーンの分け方、切り方が超、超憎いほど効果的で胸躍らせる。最後の「機長と僕しか知らない」操縦席のくだりと、器機を外すアーロン・エッカートの表情。彼演じる副操縦士ジェフの「人間的」な振る舞いの数々も、この映画では実に雄弁だ。
また、言うなれば「タワーリング・インフェルノ」のラストシーンが半ばにあるようなものだから、数々の「アクション映画」の「その後」もそういやどうだったのかなあ、なんてくだらないことを想像してしまった(笑)こういう時に、サリーを主役に据えながらも、ふとカメラを振るように一人一人(家族と再会する者や電話する者など)をクロースアップするというやり方もいい。これら全てが、先に述べた操縦席のように「(誰かと)自分しか知らない」事実であり、イーストウッドが多くの「本人」をキャスティングすることによって求めた「リアル」とはそういうものじゃないかとも考えた。