ケイコ 目を澄ませて


映画はケイコ(岸井ゆきの)が部屋でひとり、床に座って氷を噛みながら文字を書いているのに始まる。彼女が日々の記録のそのノートをあっさりと会長の妻(仙道敦子)に渡してしまうのにすごく驚いたものだけど、見ているうちにそれこそ大事な瞬間だったと分かる。自分を言葉にして認めておく人の事情は様々だろうけど、彼女のあれは外に放ちたかったものに違いないから。

近年の映画には踏み込んだ行為による救いが描かれることが多いけど、大抵はすごく身近な人間によるのが、ここではそこまでじゃない。それが逆に重要で、だってケイコはノートを弟(佐藤緋美)には見せない、見せられないのだから。その内容が仙道敦子の声で作中の人に、私達に放たれるのがこの映画の山場、あそこはぐっときた。私が会長の妻なら遠慮して絵以外は見ずに返すだろう。そういうのを越えた行為の意義もあるのかということを考えた。

先の山場ののち、ケイコは弟のパートナー、仕事の同僚、最後には…と自分と違う言葉を使っている人達とコミュニケーションを取るようになり、一段駆け上った場所でまた日々を始める。もしかしたら彼女はノートを渡せる相手を待っていた、あるいはあの後にああして会長(三浦友和)に読んでもらうよう頼んだのかもしれないとも思う。

会長が口にしつつ考える挨拶文を妻が縦書きの便箋だかに書き留めるのにも(いまどき!と)びっくりしたけれど、これは自分の気持ちを言葉にして外に出すということについての話である。人によってその行為の意味するところは異なる。ケイコがなかなか出せない手紙と一緒にバスに乗る場面が面白く、また新しいジムでの喋るそばから文字になる器具にはそのタイムラグの無さに違和感を覚えたのかもなどと考えた(介護の際に使ったことがあるけど、始め奇妙な感じがしたのを覚えている)。そしてもう一人のケイコとも言える会長には妻がいる…見ながら演者の年齢差もあり妻の老後が心配になってしまったけれど。