ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語



「おばさまの言うことにも一理あります」
「少なくとも間違っちゃいないよ」

そうなんだ、女の生き方には間違っちゃいないものが幾つもあるんだ、自分で選ぶなら。思えばこれは、姉妹四人がしたいことを出来る限りしたという物語なのである。これまでそう見たことはなかったけれど、ベスの病気との闘いだってそうなのだ。

オープニング、持ち込んだ原稿を刈り込まれたジョー(シアーシャ・ローナン)が「道徳を盛り込んだのに」と返すと編集長いわく「説教くさいのは受けない」。これはオルコットが出版社に少女向けの道徳的な小説をと依頼されて「若草物語」を書いたことを受けて(企業と彼女の立場をあからさまに反転して)いるのであり、私にはこの一幕は、この映画は彼女の書いたものから彼女の望まなかった道徳的要素を払って紡いだものですよ、というちょっとした宣言に思われた。そうして見ると、この映画で道徳的とも取れる部分、例えばマーチ夫人(ローラ・ダーン)のジョーへの「私も本当は毎日怒っているのです、でも表に出さないだけなのです」という言葉などは、作り手が真に大切に思っていることなのかもしれないと推測できる。

(以下「ネタバレ」あり)

若草物語」を読み返すと、結婚というものにつき女の方が男よりよくよく考えているのが心に残る。女にとって結婚とは経済問題、すなわち生死に関わるからだ。本作の肝は勿論、小説の読者が抱くであろう、結婚しないと決めていたジョーがなぜ結婚するのかという疑問をオルコットの分身である本人に「(作中の自分を)小説が売れるために結婚させた」と言わせて解決しているところ(あの「傘の下で」のやけくそ具合!)で、この映画は現実だけでなくフィクションでも女は結婚せねばならなかったのだと明らかにすることで、私達のフィクションに接する態度にも物言っているのである。

小説におけるジョーの結婚が謎ならエイミーの結婚も謎である。メグ(エマ・ワトソン)は家庭を築きたい、ジョーは作家となり名を残したい、ベス(エリザ・スカンレン)は体が弱く将来の夢を抱くことができない、それならエイミー(フローレンス・ピュー)は?ジョーのように才能があるわけでもなく、ゆえにお金も作れない、つまり彼女には希望がない。そんな女こそマーチおばさん(メリル・ストリープ)に言わせれば「家族の希望」なんだから悲しすぎる。自分の希望がない、持てない女が家族の希望となる、金銭や労働をもたらすことで家を救うというのはおそらく今だってあるだろう。

絵をやめる前にぼくを描いたらとチャーミングに横たわるローリー(ティモシー・シャラメ)に「私とあなたの現実は違う」とつめよるエイミー、この映画のクライマックスはジョーが執筆の渦に巻き込まれるところだけども、その前段としてここがあるように私には思われた。悲しいところに好きな人が自分を好きだったなんて状況が訪れるという物語上のちょっとした謎、不自然さへの抵抗とでも言おうか。またエイミーが断るプロポーズの「絵に描いたような」遠景と、後に受けるプロポーズ(と同義のキス)のこちらは絵に描いたようではない遠景、あれは何だろう、奇妙に印象的だった。

本作では四人の「好きなこと」への熱意も強調されている。エイミーが体罰により学校をやめることになる原因が小説と異なり授業中の悪戯書きになっているところや(先生ならうまいもんだ、くらい言ってもいいでしょう)、私は小説冒頭でベスの声がほのかなために「ブラシが聞いただけでした」という箇所が好きなんだけど、その彼女がローレンス氏(クリス・クーパー)の含意あっての問い掛けにハンナの陰から出て大きな声で答えるところなど面白く見た。ちなみに屋敷のピアノを弾くべスの姿にローレンス氏が思い起こす亡き娘はシューマンの「子供の情景」、昨年サム・フリークスで見た(後に94年版「若草物語」を撮る)ジリアン・アームストロングの「わが青春の輝き」のテーマだったあの曲を弾いていた。