
シリアでは多くの子どもが破壊や占拠により学校を失ったが、イギリス北東部のかつて炭鉱があった町でお腹を空かせ「私がいなくても学校には関係ない」と帰ってくるリンダもまた学ぶ機会を奪われていると言える。ポテトチップスだけの食事で倒れた彼女を送って空の冷蔵庫を目にしたシリアの女性ヤラ(エブラ・マリ)は、ローチの映画で交流の場として出てくるのは珍しい美容院での女同士のお喋りを経て、ローラ(実際に慈善団体の職員であるクレア・ロッジャーソ)と共に「子ども達を飢えさせない」ための食堂の開設をパブ経営者のTJ(デイヴ・ターナー)に持ち掛ける。TJの手から皿を受け取る子ども達の「今日だけ?」「絶対タダ?」に心が痛み、終盤の「いいことは長続きしない」「そうなると思ってた、うそつき」には違う意味で一番刺されたが、これは希望を持たなきゃ何も始まらないからやめるなという話である。
シリアから人々がやって来る経緯は映画でも様々だ。最近見たものならジュリー・デルピー『バーバリアン狂騒曲』(2024年フランス)は「全会一致でウクライナ難民の受け入れを決定するが、やって来たのは…」というコメディであった。本作の場合、かつては手に入れることが誇りだった家を顔も見せない奴らに買い叩かれている住民達は国が(不動産価格の安さから)難民を「送り込んでくる」ことにつきここはゴミ捨て場だと憤懣やるかたない。しかしTJは幼馴染のチャーリー(トレヴァー・フォックス)の「一線を引くための集会を奥の部屋で開きたい」との依頼には耳を貸さない。炭鉱の歴史を語る写真に「労働者が団結すれば世界は変えられる」「一緒に食べれば一つになれる」との両親の言葉が詰まった、言うなれば『1945年の精神』(2013年のドキュメンタリーのタイトル)を幻想として閉じ込めたそこは憎しみでは開かない。
アキ・カウリスマキ『希望のかなた』(2017年フィンランド)はプロの役者であるシェルワン・ハジをシリアからの難民である主人公に据えアキの分からないアラビア語でも語らせたのが特徴だったが、同じ頃を舞台にした本作のやり方は真逆で、心情を吐露するのはTJの方である。一度目は「友達以上の対等な存在」である犬のマラを亡くした時、二度目は友人ら、とりわけチャーリーに裏切られた時。「世界有数の裕福な国に食べられない子どもがいて、助けようとすると潰される」「踏まれっぱなしのドアマットみたいな奴ら、期待しなきゃ何も始まらないのに」。この10年でこの問題につき何を省みるべきかが変わったのかもしれないと考えた、掘り下げるべきは自身の側であると。墓地で「追いかけるな!」と追ったマラが殺されてしまったことが最終的に彼の背を押したことから、状況により誰がどの立場になるか分からないとも思う。
エンドクレジットに「話をシェアしてくれた、匿名を望むシリアの人達」への謝辞があった。作中にはTJとヤラの「英語が上手だけどどうやって勉強したの」「毎日単語を20ずつ覚えると決めて6か月やった」なんてやりとりがあるが、こういうのはいわゆる説明台詞ではなく、私達が知りたい、知るべきことを教えてくれているのだと言える。彼女の「家族やコミュニティのために強くありたいから強いふりをしている」という事情だって知るべきだ。そして終盤の町の人々のsorryからの行動は、ヤラの「世界に見捨てられた時に私達はほろびる」への応えであり、この映画はその気持ちがあるなら連帯できる、あのエンディングに繋げることができると言っているんだろう。