
「水俣病公式確認70年によせて 土本典昭監督特集」で『水俣 患者さんとその世界』と続けて観賞。
チッソ水俣工場を見下ろす丘で聞く「チッソの歩みは資本主義と日本の歩みそのもの」。朝鮮の興南工場の設立には大使(政府)が介入して二束三文で土地を買い叩き、東洋一のコンビナートの動力源となるダム工事に際しては人間なんていくらでもいるというので死亡通知の紙を山ほど用意していたと。そこから「いくらでもいる」、とりわけ不知火海と分かちがたい暮らしを送る人々の世界にカメラが降りていく、「権威ある学者達による30分の視察」において、採った魚につき誇らしげに話す漁師を始め。魚ばかりが映っているわけではないが、見終わると魚がとても身近に感じられる。
1974年、17歳になった胎児性水俣病患者の少年は土本に対し看護師達はぼくらの悪口を言っていることがある、その映像を撮りたい、家にいるのが何といっても一番だけどおじさん達と全国を回りたいと言う。映画を作るとは力を持つことだと知っている。土本の困惑の言葉で場面転換。看護師の女性は少年達につき、異性に興味を持つようになり私も後ろから強く抱きつかれることがあると話す。このくだりにつき当時書かれたのであろう「青年期を迎え、愛や恋に体のうずく胎児性患者」を映画の説明に使うのはもうやめてほしいが、土本の反応の前に場面が切られているのが幸いといえば幸いだ、それ自体が困惑のしるしとも取れるから。困惑といえば補償金で趣味満載の立派な家を建てた男性の「30分も草取りをした日には夜、相手を寝かせないから」に土本も私も「?」となるが、程なく「家内にマッサージをさせる」という意味だと分かる。
映画作りとは人に機会を与えること、というのをこの映画はそのままやっている。水俣病患者専門の施設、明水園でスタッフが帰った後(ああいう時(閉所時間)に君が代を流すのは当時の普通の感覚だったのか、あの頃生まれた私にも分からないが、かなりの皮肉だ)撮影班は足を使わず運転できる車を持ち込むが、つまるところ、少年が免許を取るのは無理だろうということが明らかになる。「胎児性患者が医師へ初めて質問する」のくだりでは、医師は少女の言葉を要約しもっとはっきりさせようと質問を繰り返すが今の目では型にはめようとしているようにしか見えず対話は行き詰まり、カメラさえ行き場を失いよそを見る。あそこで行われていたことを言い表す言葉が私には思いつかない。今、目の前のことをがんばろうとしか言われない者が最もつらいのだと分かる。
患者として認定されるのに数年かかることもあると識者が説明する映像が挿入され(英語併記のあの図はどこに向けたものだったのだろう)診察した医師が申請できる新制度の話が出た後、舞台は御所浦島に移る。家から患者を出すわけにいかないと家族に申請を止められている、辛い体を診てもらえる医者は諸島に一つしかなく高い金を払って舟で行くがかつては手足だった舟に乗るのが今は一番大変(先の家を建てた患者が自分を「手足をもがれたカニ」と称していたのを思い出す)、当の医師に聞くと申請をしたことは一度もないという。町役場の助役の言い訳が「水俣病かどうか分からないわけです」と島の人々の視点にいつの間にかすり替わっていたのが、いつの世にもああいう話し方をする人がいるなと心に残った。