人間の値打ち



公開初日に観賞。とても面白かった。
最後に提示される、タイトル(原題「Il capitale umano(人間の値打ち)」)の意味を告げる文章からして作り手の本意は違いそうだけど、私には、古い言い方をすれば「道具は人間の機能を拡張する」ものであり、それゆえ、車がいかに人の心の動きを大きく現すか、それゆえ危険でもあるか、ということを描いた映画に思われた。


各章の始めに、人々が車に乗っている姿が映る。一章では不動産屋ディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)が、助手席の娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)を「上」へと昇る足掛かりにしようとしている。二章では富豪ジョヴァンニ(ファブリツィオ・ジフーニ)の妻カルラ(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)が、「予定がいっぱい」ながらどれにも気が乗らず運転手に命じて所在を決めかねている。三章では彼女の息子マッシ(グリエルモ・ピネッリ)が、セレーナに新車を「野獣のよう」と自慢する。最終章では…カルラが家に「戻る」。


後日自身でハンドルを握ったカルラが、「冴えない男」のドナート(ルイジ・ロ・カーショ)に真実を突かれた帰路、発進の遅れた前の車に悪態をつく。その後にバックして謝る姿になぜか涙がこぼれてしまった。セレーナの同級生の屋敷を「哀れな奴らだ」と笑っていたルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)が、「野獣」に乗った途端に取りつかれたように下りなくなる、あの顔は恐ろしかった。最後にジョヴァンニの大邸宅のパーティにやって来る車の列は、蜜に群がる蟻のようだ(勿論、彼はそうだと「知って」いる)。


目当てのテデスキ様はやはりよかった。町の劇場に灯りがついた際の、少女のような足取り。何か揉め事に直面すると「コーヒーとビスコッティにする?」「お砂糖を入れましょうか?」「今夜は三人で食事しましょう」と食べることで何とかしようとするのは、ディーノが菓子パン=「精神安定剤」を鞄に忍ばせている(程、食べてばかりいる)のと通じるところがある。寄せた胸の谷間に垂れているネックレスは、その胸の中にある何かに引き寄せられているよう。最後の場面のみ、胸元を出していないのが印象的だった。


対して、一人で全てを背負いこみ処理しようとする高校生のセレーナが、その胸に下着を着けていないのも妙に心に残った。彼女は自分のバイクに乗り、父の恋人ロベルタ(ヴァレリア・ゴリノ)の車をあくまでも移動手段として使う。いったん帰宅した翌朝、父親にまた送ろうかと言われて断る真の理由が、三章で分かる。セレーナがロベルタの、子を宿した体に抱き付いて告白する場面は、まだ何者でもない「人間」への気持ちがあふれ出しているかのように思われた。


この映画は人と人との接触の描写がいい。カルラがドナートに膝に手を置かれる感じ、セレーナが隣で息荒く眠るルカの胸に顔を寄せる感じ、なぜか我がことのようにぐっときた。