とても好みの映画だった。映画の最後の最後に、「心をこめて、デイヴィス・ミッチェル」。
主人公デイヴィス・ミッチェル(ジェイク・ギレンホール)が群衆の中を歩いてくる場面の内の一つに、大きなあくびをする男がいるのにそそられた。かもめの真似をするデイヴィスが素晴らしかった。フィル(クリス・クーパー)が、不可能な「one more minite」ではなく「two minutes」をデイヴィスにくれたところで涙が溢れた。最後に現れる「違う時間を生きていた『関係者』」に本当にダメ押しされた。
見ながらふと、自分が子どもの頃に考えていた話みたいだなと思った。幼稚だという意味じゃなく、物語にはしなかった、出来なかったけど、想像していたことが形になっていたという感じ。デイヴィスも「子どもの頃は病気になると母親に瞼にキスしてもらったものだけど、もう遅いかな?」と言うじゃないか。
妻を亡くしたデイヴィスは早々に、「全てはメタファーじゃないか」と思い始める。私は映画を見る時、全てをメタファーとして受け取るが、映画の中の登場人物が宣言した上でそれを行うなんて、前代未聞で爽快だ(笑)それは「どう生きるか」ということである。カレン・モレノ(ナオミ・ワッツ)からの電話を受けると電気がついて音楽が流れ始める場面には、「生」を感じてぐっときた。
「破壊と分解」の衝動は、デイヴィスが全てのものにつき「なかみ」を知りたくなったということである(そしてこれは、「ご先祖様には申し訳ないけど」に表れているように、生きる者のためである)。彼は妻の体の中も頭の中も知らなかった。奨学生基金にぴんとこないのも、あのような面接では人の「なかみ」が分からないと思うから(そしてこの物語では実際そうだから)である。
ナオミ・ワッツの息子の15歳の少年の部屋に「ダイアモンドの犬」のレコード。「ガールズ・ロスト」の14歳の少女の「アラジン・セイン」(レコードじゃないけど)然り、「現在」が舞台でもそういうこともあるかもしれないと思う。しかもこちらの方が何故か「リアル」に感じた。