ハートストーン/17歳にもなると



▼「ハートストーン」(アイスランドデンマーク/2016)は、全編これセックスという映画だった。そこでは挿入行為は一つの「ゴール」である…未経験の子どもにとっては…と同時にいわば象徴である。何だってそうだけど、どこかに向かう過程こそが性的なんである。
共同体における、(支配ではなく)制御されていない性欲のぶつかり合いとはこんなにも痛々しいものかと思わせられるのと同時に、ある種の、今では原始的とも言えるような健全さも感じた。それは男も女も自分の体からいわば性の探索に出発してるという点である。映画はソール(バルドル・エイナルソン)が湯気で曇った鏡で自身のいわゆる第二次性徴の数々を確認するのに始まる。


子ども達の部屋には音楽を始め多くの文化が存在しているが、作中の彼らの言動には一切表れない。学校に通う描写もない。描かれるのはセックスのことばかり。終盤、他の子ども達がサッカーをしている姿に、この世界でもこんなことをしてたんだとはっとさせられる。
少年達が動物を潰したり殺したりするのは、自分も他人も、というか世界が思い通りにならないからというふうに見えた。私の好みとしては、最初と最後のカサゴとか「鶏」の羽をむしる行為とか、ああいう、それこそメタファーだよね、を多用するのはちょっとぴんとこず。実際にするであろうこととの間に少し距離を感じる。


▼第26回レインボー・リール東京で上映された「17歳にもなると」(フランス/2016)は、稀に見る個性的な映画だった。子どもの頃、磁石の同じ極同士を近付けると手の中に強烈な跳ね返りの力を感じるのが面白くて何度もやっていたのを思い出した。あの感覚がずっと続くような映画。


とにかく「激しい」。まずはずーっと音が聞こえているからなんだけど、「うるさい」ではなく「はげしい」と受け取ったのは、特に前半、それらの音は少年二人がたてているから。蛇口から水を出す音、牛をブラッシングする音、サンドバッグを叩く音など。
尤も帰宅して一分で腕相撲を始めたり、走って帰るや軍の福祉課がやって来たりと、二人の性分というよりこの映画の描く世界そのものが性急。それからなぜか「逆回し」のイメージも沸いた。歯を磨いているところに腹が減ったと卵を焼くなんて奴らの話だからかも(笑)


見ながらふと「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」を思い出した。あの映画の主人公は「全てはメタファーだ」と考えるようになりそれを実行するが、この映画の二人はもとよりそう。「頭を冷やさなきゃ」と言う時、もしかしたら子どもは本当に頭を水につける(冷たい水に飛び込む)かもしれない、そういう類のことを延々とする(上記「ハートストーン」とは違い、そうしたことが不自然に感じられない)。でもってそんな映画のタイトルが「17歳にもなると」、つまりもう子どもじゃない、というのが私には面白かった。
「メタファー」とはちょっと違うけど、例えば裸になってセックスの夢を見れば、セックスしたようなものかもしれない、なんてこともふと考えた。



スパイラルホールを初めて訪れたので、空き時間に一階のスパイラルカフェで休憩。大きさも中味も案外と「表参道」ぽくないデザートだった。