ビール・ストリートの恋人たち


既に多くを背負う人々が登場するタイプの映画もあるが、これは一から人々を語っていくタイプの映画である。当たり前だと言われそうだけど、これをきちんとやっている映画ってそう多くない。私にはこのやり方は非常に小説的に感じられる。
一つの暗雲あるいは穴はあれど暖かく愛し合う家族の狭い居間での一幕に始まる物語は、そこに別の家族が訪れることにより、それぞれが外に出ることにより、段階的に彼らが生きる、避け得ない世界を描いてゆく。翻って最初の穴が何によるものか分かってくる。「彼らが裁くのは我々の権利そのものである」。

「なぜ同性愛なのか」に対抗して敢えて言うなら、この物語では異性愛であることに意味がある。悪人は弱者の属性によって悪事の種類を変えるから、それによって弱者の結束に亀裂が生じることがあるから。同じ人種でも男女で受ける抑圧の種類が異なり、時に溝ができる。ファニー(ステファン・ジェームズ)が「離れるのは不安」と漏らすのはそのことを肌で感じているからだ。二人はデイヴ・フランコ演じるユダヤ人の家主に「普通」に扱われ、ほっとしたのかふと離れてしまい、エド・スクレイン演じる警官から酷い目に遭わされる。愛はそれに耐える。ティッシュ(キキ・レイン)の「子どもはあの日にできた」からしても、この物語は抑圧による分断に対抗できるのは愛とセックスとしていると分かる。
もちろん通じる属性間でもどのようなサバイバーであるかで溝が生じる。あの女性は本当にレイプされたのだろうかという疑念、「あんたはレイプされたことないだろ」という叫び、大親友の間柄ともなれば「ありがたいがお前は地獄を知らない」なんて言葉となる。

「おれが好きか、何が言いたいかっていうと、おれとのmake loveが好きか」とのファニーのセリフからも、この物語では愛あるところにセックスが、セックスあるところに愛があるということが分かる。初めてのセックスにおいて、レコードを掛けたその傍らで静かにベルトを外しズボンを脱ぎ歩み寄ってくる、あの優しさと勇気よ。あんな美しい金具の音を初めて聞いた。
一方で「heartの弱い」ファニーの母親は愛を、セックスを否定し、そのことにより自分や周囲を傷つける。神への愛にかまけ息子の弁護士にも会わない。また十字架を提げていてもレイプされる者もいる(言ったら当たり前だ、そんなの)。このような物語のラストで、「パパにご加護を」の後にしばらく手を離さない二人の胸中には何があるのか。そもそもなぜ食前の祈りの際に彼らは手を繋ぐのか、実は私は知らない。