8年越しの花嫁



島へ渡るフェリーでの社長(北村一輝)の「車屋にはいいところだぞ、潮風で車がすぐダメになるから」とはいいジョークだ。なるほど「最後のジェダイ」の「ケアテイカー」とはこの映画の佐藤健のことだったのかと思った。終盤彼がその島へ渡るのは、直すべき一番大きなものがなくなった心の穴を埋めるためとも受け取れるから。先のセリフの後の、他に誰もいない道を一台の車が、中からは「飛ばしている」ようだけれど外からはそう見えない、ゆっくり進んでいるように映る遠景も、彼の歩みを表しているようだった。


大きな机のふちっこ同士の二人、尚志(佐藤健)と麻衣(土屋太鳳)が目を合わせる出会いから惹き込まれる(これが「はみ出し者」同士じゃないところが今じゃ逆に新鮮だ・笑)。この一幕を振り返ると、麻衣の言動が目立つ裏で、尚志の人となりこそしっかり描かれていることに気付く。アーケードを抜ける辺りで路面電車が現れカットが変わると、二人が並んで歩き始めたことが分かりはっとした。


この映画からは、私が嫌で逃げてきたもの…日本の地方の、ショッピングセンターの大きな駐車場、実家でテレビを見ながらの年越し、それから「結婚式」などが、他の人にとってはこんなふうに在り得るのだということが伝わってくる。冒頭、佐藤健がスクーターで「向こう」と「こちら」を隔てる川を渡り、ぽつんと建つ病院に向かう姿に涙がこぼれてしまった。


麻衣の母(薬師丸ひろ子)の「順序が逆だけど」に表れているように、この映画は、「結婚式」とは家族になる儀式であると言っている。同様に「結婚指輪」は、それを指にはめている母親や社長の言動と絡めることで、家族の証であると言っている。このような「家族」に馴染めない私が「結婚式」や「結婚指輪」にも馴染めないのは当然なのだと納得できる、筋の通った誠実な映画だ。


母の「こら、お客さんからでしょ」から父(杉本哲太)の「君は家族じゃない」までの彼らには、字面では分からない過程があるわけだけども、予告編にも使われているこの場面に、日本人の「家族」観、「ウチ」に謙譲語を使うような心の在り方(の良い面)が非常によく表れていると思った。母が「あれは本当の麻衣じゃない」と言うのも日本人らしい。病気になるともう「元に戻る」ことはない、あるのは変化のみということを描く映画を今世紀に入ってから結構見たものだけど、この映画はまた違う見方を提示してくる。


面白いのは、家族が一丸となって頑張ってもどうしようもなかった、膠着というか何かが沈殿したままのような状態から、結婚式場のスタッフといういわば第三者が刺激となって抜け出せたとも解釈できるところ。携帯電話のボタンがアップになる場面の「クライマックス」度は、「シャーロック」の「ベルグレービアの醜聞」のスマホのそれに迫るほどだ。セクシーな要素は無いけど(笑)


「麻衣が初めて笑った」日の彼女視点の映像と笑顔は、振り返るとやはり恐ろしい。尚志の言う通り「目が覚めたら知らない人が」、母が言う通り「あなたが寝ている間に家族になった」んだから。しかしその後の展開には筋が通っており、一方的な「愛情」の賛美にはなっていない。私は尚志の自撮りには、やはり今年見たスティーブ・グリーソンのドキュメンタリーを思い出した。映像の、自撮りの特性というものがあり、心からそれを撮りたいと思った者を描く映画が時を同じくして違う国で作られる。そこのところも面白いと思った。


すごく「うまい」映画じゃない。ぎくしゃくしている。でも、変な言い方だけれども、真面目なぎくしゃくだから見ていて楽しい。例えば自分から会いに「行く」ことをした麻衣に尚志が「歩こう」と言う、この時点でこの言葉は明らかにメタファーだと分かる。しかしその後の彼の「ずっと一緒に歩こう」は、ダメ押しやネタばらしというよりも、私には、人はメタファーに生きるのだと言っているように思われた(つまり、古典的な認知論のように、一緒に歩こうと思う時、人はその人と生を共にしたいと思っているのだということ)。そういう面白さのある映画だった。